幕間・一:鉄牙、地に堕つ
小田原城――オークたちが「石の山」と呼ぶその場所での、一方的な蹂躙から、幾日が過ぎていた。
鉄牙部族連合の野営地「クラッグ・ドゥーム」には、かつての野蛮な活気はなく、敗戦と、数多の同胞を失ったことによる、重く湿った絶望が満ちていた。
あちこちで、傷ついたオークたちが呻き声を上げ、シャーマンたちの原始的な回復術も、鉄の弾丸が抉った傷の前には気休めにしかならなかった。
女たちは、帰らぬ夫や息子の名を呼び、子供たちは、その異様な空気に怯えて、ただ静かにしている。
No.2の部族長であるグルマッシュ・ブラッドアックスは、その光景を、自らの天幕の入り口から、冷徹な目で見つめていた。
(……なんという無様な様だ)
彼の脳裏に、あの日の光景が焼き付いて離れない。
統率された人間の兵士たちの動き。側面から突き崩された、あまりに脆い自軍の陣形。そして、天を覆う白煙と、全てを薙ぎ払った雷鳴。
あれは、戦ではなかった。ただの狩りだ。そして、自分たちオークこそが、狩られる側の獣だった。
(あの男では、勝てぬ)
グルマッシュの視線が、野営地の中央に立つ、一際大きな天幕へと向けられる。
大族長、ゴルドー・アイアンタスクの天幕だ。
その時、ゴルドーの天幕から、怒りの咆哮が響き渡った。
「おのれ、おのれ人間どもめ! 卑怯な魔法を使いおって!」
片腕を失い、その威信を地に墜としたゴルドーが、残った左腕で棍棒を振り回し、天幕の中の調度品を破壊している。
「次は、必ずだ! 次こそは、あの『石の山』を血の海に沈めてくれるわ!」
彼は、他の氏族長たちを呼びつけ、再び兵を集め、再度の攻撃を仕掛けるのだと喚き散らした。
グルマッシュは、静かにその場を離れ、自らの天幕へと戻った。
(……まだ、わかっておらぬのか。あの男は。我らが負けたのは、魔法のせいではない。兵の動き、武器の質、そして何より、戦の考え方、その全てにおいて、我らが劣っていたからだ。それを認めぬ限り、何度戦おうと、我らは狩られる獣のままだ)
彼は、壁にかけてあった巨大な戦斧を手に取り、その無骨な刃を見る。我らの誇るこの武器でさえ、あの人間たちの前では、ただの鉄屑も同然だった。
グルマッシュが、深い思索に沈んでいた、その時であった。
「――その斧も、悪くはない。だが、その獲物の肉、冬を越せるほど蓄えはあるか?」
天幕の隅の闇から、声がした。
「何者だ!」
グルマッシュは、驚愕と共に、声のした方へ戦斧を構える。天幕の入り口は、屈強な見張りが固めているはずだ。
闇から音もなく、一人の男が姿を現した。
顔を不気味な仮面で覆い、黒い装束を纏った、小柄な人間。
風魔の密使であった。
「案ずるな。お前を殺しに来たわけではない。話をしに来た」
男の言葉が、グルマッシュの頭の中に、直接響いてくる。
「……何の用だ、人間」
「我が主君からの、お前にだけの話だ」
密使は、グルマッシュの目を見据えた。
「お前たちの王は、弱い。先の戦で、それは証明された。あの男に付き従えば、お前たちの部族はいずれ滅びる。それは、お前が一番よくわかっているはずだ」
「……」
グルマッシュは、答えなかった。だが、その沈黙こそが、肯定であった。
密使は、言葉を続ける。
「グルマッシュ・ブラッドアックス。お前は、ゴルドーよりも強い。そして、賢い。鉄牙部族は、新たな王を求めている」
(……我らの名前も……。諜報網でも完敗か)
男は、ゆっくりと悪魔のような甘い響きで、その本題を口にする。
「――ゴルドーを、討て」
「なに……?」
「お前が、新たな大族長となるのだ。さすれば、我が主君、北条氏康様は、お前を鉄牙部族の正当な王として認め、お前たちとは争わぬ、という約定を結んでやろう」
グルマッシュは、人間たちの王の名を、初めて聞いた。
「……なぜだ。なぜ、我らを滅ぼさぬ。なぜ、俺を王にしようとする。お前たち人間は、何を企んでいる」
グルマッシュは、目の前の密使の仮面の奥を、値踏みするように見据えた。
その問いは、ゴルドーのような単なる怒りではなく、相手の真意を測る、冷徹な響きを帯びていた。
密使は、仮面の奥で、かすかに頷いたように見えた。
「我が主君は、無益な争いを好まれぬ。ただ、隣人が、話の通じぬ獣であることは、好まれぬ。ゴルドーは、ただ吼えるだけの獣。だが、お前は違う。お前は、我らと『話』ができる王となれる」
「……取引の、対価は」
「知識だ」
密使は、懐から、硬く乾燥した黒っぽい肉の塊を取り出し、グルマッシュの足元に投げた。
「食ってみろ」
グルマッシュは、訝しげにそれを拾い上げ、一欠片を歯で引き千切って口に放り込んだ。
固いだけの、いつもの干し肉のはずだった。だが、噛みしめた瞬間、彼の獰猛な顔が驚愕に固まる。
(な……なんだ、これは……!?)
ただの塩味ではない。
これまで味わったことのない、深く、香ばしい「何か」が、肉の旨味を内側から爆発させている。喉を通り過ぎた後も、その豊かな風味が、舌の上に残り続けた。
そして彼は、理解した。この、あり得ないほどの美味さ。そして、この完璧な乾燥具合がもたらすであろう、驚異的な保存性。これこそが、目の前の男が言った「知識」の、ほんの欠片なのだと。
「お前たちが狩った獣の肉を、我らの技術で、冬を越せる『食料』に変える。お前たちが剥いだ皮を、我らの技で、人間の剣も通さぬ『武具』に変える」
「我らが与えるのは、『力』そのものではなく、力を生み出す『知恵』だ。その対価として、お前たち鉄牙部族の戦士を、我らの傭兵として差し出すのだ。飢えに苦しむ同胞に、名誉ある仕事と、十分な食料を与えることができる。悪い話ではあるまい?」
(……武器ではない。知識と、技術、か)
グルマッシュの脳裏に、ゴルドーの、ただ力に任せて突撃し、無様に敗れ去った軍の姿が浮かぶ。そして、目の前の人間が提示した、冬を越せる干し肉、人間の剣も通さぬ武具。
(ゴルドーは、ただ奪うことしか知らぬ。だが、この人間どもは、奪うのではなく『与える』ことで、我らを、より強く、そして、より従順にしようとしている……!)
その、あまりに狡猾で、しかし、抗いがたい提案。それは、彼の理知的な魂を、鷲掴みにした。
「……面白い。その話、乗った」
グルマッシュがそう答えるのを待たず、風魔の密使は、煙のように、その場から姿を消していた。
天幕の中に一人残されたグルマッシュは、手の中にある、未知の味が染み込んだ干し肉を、じっと見つめる。
外からは、未だに先の敗戦を嘆き、無様に喚き散らすゴルドーの声が聞こえてくる。
その声を聞きながら、グルマッシュは、静かに、そして獰猛に、その唇を歪めた。
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