表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/18

幕間・一:鉄牙、地に堕つ

 

 小田原城――オークたちが「石の山」と呼ぶその場所での、一方的な蹂躙から、幾日が過ぎていた。


 鉄牙部族連合の野営地「クラッグ・ドゥーム」には、かつての野蛮な活気はなく、敗戦と、数多の同胞を失ったことによる、重く湿った絶望が満ちていた。


 あちこちで、傷ついたオークたちが呻き声を上げ、シャーマンたちの原始的な回復術も、鉄の弾丸が抉った傷の前には気休めにしかならなかった。


 女たちは、帰らぬ夫や息子の名を呼び、子供たちは、その異様な空気に怯えて、ただ静かにしている。


 No.2の部族長であるグルマッシュ・ブラッドアックスは、その光景を、自らの天幕の入り口から、冷徹な目で見つめていた。


(……なんという無様な様だ)


 彼の脳裏に、あの日の光景が焼き付いて離れない。

 統率された人間の兵士たちの動き。側面から突き崩された、あまりに脆い自軍の陣形。そして、天を覆う白煙と、全てを薙ぎ払った雷鳴。


 あれは、戦ではなかった。ただの狩りだ。そして、自分たちオークこそが、狩られる側の獣だった。


(あの男では、勝てぬ)


 グルマッシュの視線が、野営地の中央に立つ、一際大きな天幕へと向けられる。


 大族長、ゴルドー・アイアンタスクの天幕だ。


 その時、ゴルドーの天幕から、怒りの咆哮が響き渡った。

「おのれ、おのれ人間どもめ! 卑怯な魔法を使いおって!」

 片腕を失い、その威信を地に墜としたゴルドーが、残った左腕で棍棒を振り回し、天幕の中の調度品を破壊している。


「次は、必ずだ! 次こそは、あの『石の山』を血の海に沈めてくれるわ!」

 彼は、他の氏族長たちを呼びつけ、再び兵を集め、再度の攻撃を仕掛けるのだと喚き散らした。


 グルマッシュは、静かにその場を離れ、自らの天幕へと戻った。


(……まだ、わかっておらぬのか。あの男は。我らが負けたのは、魔法のせいではない。兵の動き、武器の質、そして何より、戦の考え方、その全てにおいて、我らが劣っていたからだ。それを認めぬ限り、何度戦おうと、我らは狩られる獣のままだ)


 彼は、壁にかけてあった巨大な戦斧を手に取り、その無骨な刃を見る。我らの誇るこの武器でさえ、あの人間たちの前では、ただの鉄屑も同然だった。


 グルマッシュが、深い思索に沈んでいた、その時であった。


「――その斧も、悪くはない。だが、その獲物の肉、冬を越せるほど蓄えはあるか?」

 天幕の隅の闇から、声がした。


「何者だ!」

 グルマッシュは、驚愕と共に、声のした方へ戦斧を構える。天幕の入り口は、屈強な見張りが固めているはずだ。


 闇から音もなく、一人の男が姿を現した。

 顔を不気味な仮面で覆い、黒い装束を纏った、小柄な人間。


 風魔の密使であった。


「案ずるな。お前を殺しに来たわけではない。話をしに来た」

 男の言葉が、グルマッシュの頭の中に、直接響いてくる。


「……何の用だ、人間」


「我が主君からの、お前にだけの話だ」

 密使は、グルマッシュの目を見据えた。


「お前たちの王は、弱い。先の戦で、それは証明された。あの男に付き従えば、お前たちの部族はいずれ滅びる。それは、お前が一番よくわかっているはずだ」


「……」

 グルマッシュは、答えなかった。だが、その沈黙こそが、肯定であった。


 密使は、言葉を続ける。

「グルマッシュ・ブラッドアックス。お前は、ゴルドーよりも強い。そして、賢い。鉄牙部族は、新たな王を求めている」


(……我らの名前も……。諜報網でも完敗か)


 男は、ゆっくりと悪魔のような甘い響きで、その本題を口にする。

「――ゴルドーを、討て」


「なに……?」


「お前が、新たな大族長となるのだ。さすれば、我が主君、北条氏康様は、お前を鉄牙部族の正当な王として認め、お前たちとは争わぬ、という約定を結んでやろう」

 グルマッシュは、人間たちの王の名を、初めて聞いた。


「……なぜだ。なぜ、我らを滅ぼさぬ。なぜ、俺を王にしようとする。お前たち人間は、何を企んでいる」

 グルマッシュは、目の前の密使の仮面の奥を、値踏みするように見据えた。


 その問いは、ゴルドーのような単なる怒りではなく、相手の真意を測る、冷徹な響きを帯びていた。


 密使は、仮面の奥で、かすかに頷いたように見えた。

「我が主君は、無益な争いを好まれぬ。ただ、隣人が、話の通じぬ獣であることは、好まれぬ。ゴルドーは、ただ吼えるだけの獣。だが、お前は違う。お前は、我らと『話』ができる王となれる」


「……取引の、対価は」


「知識だ」

 密使は、懐から、硬く乾燥した黒っぽい肉の塊を取り出し、グルマッシュの足元に投げた。


「食ってみろ」

 グルマッシュは、訝しげにそれを拾い上げ、一欠片を歯で引き千切って口に放り込んだ。


 固いだけの、いつもの干し肉のはずだった。だが、噛みしめた瞬間、彼の獰猛な顔が驚愕に固まる。


(な……なんだ、これは……!?)

 ただの塩味ではない。


 これまで味わったことのない、深く、香ばしい「何か」が、肉の旨味を内側から爆発させている。喉を通り過ぎた後も、その豊かな風味が、舌の上に残り続けた。


 そして彼は、理解した。この、あり得ないほどの美味さ。そして、この完璧な乾燥具合がもたらすであろう、驚異的な保存性。これこそが、目の前の男が言った「知識」の、ほんの欠片なのだと。


「お前たちが狩った獣の肉を、我らの技術で、冬を越せる『食料』に変える。お前たちが剥いだ皮を、我らの技で、人間の剣も通さぬ『武具』に変える」


「我らが与えるのは、『力』そのものではなく、力を生み出す『知恵』だ。その対価として、お前たち鉄牙部族の戦士を、我らの傭兵として差し出すのだ。飢えに苦しむ同胞に、名誉ある仕事と、十分な食料を与えることができる。悪い話ではあるまい?」


 (……武器ではない。知識と、技術、か)


 グルマッシュの脳裏に、ゴルドーの、ただ力に任せて突撃し、無様に敗れ去った軍の姿が浮かぶ。そして、目の前の人間が提示した、冬を越せる干し肉、人間の剣も通さぬ武具。


(ゴルドーは、ただ奪うことしか知らぬ。だが、この人間どもは、奪うのではなく『与える』ことで、我らを、より強く、そして、より従順にしようとしている……!)


 その、あまりに狡猾で、しかし、抗いがたい提案。それは、彼の理知的な魂を、鷲掴みにした。


「……面白い。その話、乗った」

 グルマッシュがそう答えるのを待たず、風魔の密使は、煙のように、その場から姿を消していた。


 天幕の中に一人残されたグルマッシュは、手の中にある、未知の味が染み込んだ干し肉を、じっと見つめる。


 外からは、未だに先の敗戦を嘆き、無様に喚き散らすゴルドーの声が聞こえてくる。

 その声を聞きながら、グルマッシュは、静かに、そして獰猛に、その唇を歪めた。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

 皆様の応援が、何よりの執筆の糧です。よろしければブックマークや評価で、応援していただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ