第十話:小田原攻め、再び
夜が明けた。
二日という、あまりにも短い猶予の終わり。それは、新生・北条領の存亡を決する、運命の日の始まりであった。
城下の民は、すでに内側の区画への退避を始めていた。だが、そこに悲鳴や怒号はない。
商人は黙々と店の戸に板を打ち付け、女たちは幼子の手を引きながら、静かな列を成して門をくぐる。
武士も足軽も、自らの持ち場へと走り、誰もが為すべきことを淡々とこなしていく。その瞳に浮かぶのは恐怖ではなく、ただ、己の役目を果たすという揺るぎない覚悟。
彼らは知っていた。北条家が、そして、あの獅子が、必ずや自分たちを守り抜いてくれることを。
◇
城壁の上。
朝日を受けて鈍色に輝く千の鉄砲の銃身が、静かに東の森を見据えている。その傍らには、矢を番えた弓兵たちが、息を殺して並んでいた。
やがて、地平線の彼方、森の端が黒く蠢き始めた。それは、大地を揺るがす低い地響きとなり、やがて数千の獣が同時に発するような、おぞましい雄叫びへと変わっていく。
森の闇を食い破るように、最初の一体が飛び出してきた。続いて、十が、百が、千がなだれのように現れる。粗末な皮鎧を身に着け、錆びた武器を振りかざす、およそ三千のオークの軍勢。その津波が、鬨の声を上げながら、一直線に城壁へと殺到してきた。
「……来たか」
本丸の櫓、その最上階で、氏康が静かに呟いた。
その軍勢の中心で、一際大きな体躯を持つオークが天に巨大な戦斧を掲げて咆哮している。その頭を飾るのは、およそ尋常の獣のものとは思えぬほど巨大な、牙猪の頭蓋骨を模した兜。陽光を浴びて鈍く輝く二本の長大な牙は、それ自体が凶器であった。
(……あれが、大族長ゴルドー・アイアンタスクか)
櫓の上からその威容を見据え、氏康は静かに目を細めた。
「怯むな! 一歩も退くな!」
城壁の一角、防衛指揮を任された遠山綱景の、短くも張りのある声が響く。
「敵は獣の群れと思え! 落ち着いて、狙いを定めよ!」
オークの第一陣が、最外郭の構えの射程圏内に入った、その瞬間。
「――弓隊、放て!」
綱景の号令一下、数百本の矢が、黒い雨となってオークの頭上に降り注いだ。
「グギャッ!」「ブゴォッ!」
先頭のオークたちが、次々と地に倒れる。だが、後続は、その屍を踏み越えて、なおも速度を緩めない。
後方に控える、異様な装束のオークたちが掲げた杖から放たれる不気味な赤黒い光が、オークたちを狂乱させ、痛みを忘れさせているようだった。
「グオオオオオッ!!」
ゴルドーの咆哮に応え、オーク軍の中から、ひときわ巨大な影の一団が躍り出た。彼らが跨るのは馬ではない。
背に剃刀のような剛毛を生やし、口から巨大な牙を突き出した、小山のような化け猪。その背に跨った屈強なオークたちが、雄叫びを上げながら突進力をさらに増した。
それこそが、鉄牙部族が誇る最精鋭、「レイザーバック騎兵」であった 。彼らは、空堀をものともせず、その巨体で土塁に激突。凄まじい衝撃と共に、強化されたはずの土塁の一部が、轟音を立てて崩れ落ちた!
「なっ……!? 突破されたぞ!」
城壁の兵たちに、動揺が走る。
崩れた土塁の缺口から、オークたちが、濁流のように内側へとなだれ込んできた。
そこは、多目元忠が指揮し、無数の罠を仕掛けた「死地」であったはずだ。だが、オークたちは、落とし穴に落ちた仲間を盾とし、逆茂木をその怪力でなぎ倒し、驚くべき速度で、居住区画との最後の防衛線に迫ってくる。
後方からは、杖を掲げたオークたちが、巨大な岩を念力で投げ飛ばし、城壁の上の兵たちを脅かしていた。
「第二陣、弓を放て! 鉄砲隊、一番手、構え!」
綱景が叫ぶが、敵との距離が近すぎる。防衛線が、じりじりと押し込まれていく。このままでは、城下町そのものが戦場と化してしまう。
櫓の上で、氏康は、その戦況を厳しい表情で見つめていた。
(……予想以上の突破力。後方にいる、あの杖を持った者どもか。奴らの術が、兵たちの士気を異常に高めていると見える。厄介なことよ)
戦況は、決して彼の読み通りではなかった。むしろ、想定以上に悪い。
だが、それでも好機は生まれる。彼の視線は、門を打ち破ろうと、一点に密集していくオークたちの姿を捉えていた。
櫓の上で、氏康は、その戦況を厳しい表情で見つめていた。門を打ち破らんと一点に密集するオークの群れ。その猛攻の前に、味方の兵が次々と泥濘に沈んでいく。
だが、その密集こそが、奴らが自ら晒した唯一無二の好機。氏康は、唇を噛み締め、その一点を鷹のような目で睨みつけると、隣の幻庵にだけ聞こえるよう、静かに、しかし鋭く言った。
「――今だ」
幻庵は、その一言に込められた全てを悟り、無言で頷くと、合図の旗を高く振り上げた。
その頃、城の側面にある虎口の内側では、北条綱成が、愛馬の上で静かにその時を待っていた。
彼の周りには、選りすぐられた千の精鋭騎馬兵たちが、主の号令一つで鉄の津波と化すべく、息を殺している。
「まだか……まだか、殿……!」
彼の口から、逸る心を抑えるような呟きが漏れる。その時、伝令が旗を振りながら駆け込んできた。
「綱成様! 殿より、ご出馬の合図にございます!」
「おおおおおっ!!」
綱成が咆哮した。
虎口が、内側から勢いよく開け放たれる!
そこから現れたのは、日の光を浴びて金色に輝く「地黄八幡」の旗印。
そして、その先頭に立つ、一人の鬼神。北条綱成であった。
「者ども、続けぇぇぇっ! 北条の武威、この異世界に示す時ぞ!」
綱成の咆哮を合図に、千の騎馬武者が一斉に鬨の声を上げる。横一列に並んだ彼らが掲げる槍の穂先が、まるで一つの巨大な鉄の壁となって、油断しきっていたオーク軍の側面へと殺到した。
統率を知らぬ獣の群れは、その統制された一点突破の前に、なすすべもなかった。槍衾はオークの粗末な盾と皮鎧を紙のように貫き、次々とその巨体を馬上から引きずり下ろしていく。後方にいた杖持ちのシャーマンたちは、迫りくる鉄の津波を前に、悲鳴を上げて四散した。
「な、何だ!?」「横からだ! 横から敵が!」
側面を完全に食い破られたオーク軍は、もはや軍勢としての形を保てない。綱成の部隊が瞬く間にその中央を駆け抜けていくと、後には、指揮系統を失い、ただ立ち往生するだけの、巨大な肉の塊だけが残されていた。
「――鉄砲隊、構え」
氏康の冷徹な声が、城壁に響き渡る。
千の鉄砲隊が、一糸乱れぬ動きで銃口を眼下に向ける。
火縄が、じりじりと音を立てる。
全ての兵が、ただ、次の命令を待っていた。
「――放て」
次の瞬間、世界から音が消えた。いや、あまりに巨大な一つの音――千挺の火縄銃の一斉射撃の轟音が、他の全ての音を塗り潰したのだ。
ドドドドドドドドドォォォォンッ!!!!
城壁を分厚い白煙が覆い尽くし、無数の鉛玉が、密集するオーク軍のど真ん中に、死の雨となって降り注いだ。悲鳴を上げる間もなかった。鉛玉は、粗末な皮鎧など紙のように貫き、オークたちの肉体を無慈悲に引き裂いていく。
だが、絶望はまだ終わらない。第一射を放った前列が膝をついて次弾を装填する間に、後列が間髪入れずに第二射を放つ。さらにその後列が、第三射を。
途切れることのない鉄の暴風の前に、オークたちは、ただの一歩も前に進むことができずに、その巨体を次々と大地に穿たれていく。
もはやそれは、戦いではなかった。統率された組織が、鉄と火薬の理を以て、ただの獣の群れを一方的に蹂躙する、冷徹な「狩り」の光景であった。
煙が晴れた時、そこに広がっていたのは、一方的な蹂躙の跡だった。大地は無数の骸で埋め尽くされ、呻き声と、鉄と血の匂いが立ち込めている。生き残った僅かなオークたちは、武器を捨てて森の奥へと我先に逃げ惑っていた。
だが、綱成の目は、その敗残兵にはない。彼の視線は、ただ一点――親衛隊に守られながら退却する、巨大な牙猪の兜に注がれていた。
「大将首、見つけたぞ!」
綱成は、馬首を巡らせると、咆哮と共に猛然と追撃を開始した。
「殿! 首級を挙げてまいりまする!」
「待て、綱成! 深追いはするな!」
櫓からの氏康の制止の声も、血に飢えた獅子の耳には、もはや届いていなかった。
森を目前にし、ゴルドーの退路を、数騎の屈強な武者たちが塞いだ。
「行かせぬぞ、化け物め!」
槍を構え、一番槍をつけた武者が躍りかかる。だがゴルドーは、その槍を戦斧の柄で弾き飛ばすと、返す刃で、武者の胴を鎧ごと両断した。
鮮血が舞う中、怯むことなく斬りかかってきた次の武者の兜を、今度は戦斧の石突で粉砕する。その一撃一撃が、人の理を超えた、純粋な破壊の塊であった。
黄色い旗指物が、疾風のように追いついた。
「オークの王! この北条綱成が、直々に相手をしてつかわす!」
ゴルドーは、憎悪に歪んだ顔で、綱成を睨みつけた。
「人間が……! 我が糧となれ!」
轟音と共に戦斧が風を切り、大地を抉る。綱成はそれを紙一重でかわすと、馬から飛び降り、刀を構えた。
ゴルドーの一撃は、まさに嵐。振り下ろされる戦斧が岩を砕き、薙ぎ払う一閃が木々をなぎ倒す。対する綱成は、流れる水のようであった。猛攻の激流を最小限の動きで受け流し、その力を利用して捌き、致命傷だけを的確に避けていく。
火花が散り、鋼と鋼がぶつかる甲高い音が森に響き渡る。十合、二十合と打ち合ううちに、ゴルドーの呼吸が荒くなる。苛立ちから放たれた渾身の大上段。綱成は、その一撃をあえて半身で受けた。
「ぐっ…!」
戦斧が鎧を砕き、肩に灼熱の痛みが走る。だが、致命傷には至らない。
体勢を崩した、その一瞬の隙。
「――もらったァ!」
綱成の刀が、報復の閃光となって走った。狙うは首ではない。敵が武器を握る、その右腕。
「グギャアアアアアアアッッ!」
ゴルドーの、獣の絶叫が森にこだました。巨大な戦斧が、それを握っていた右腕と共に、宙を舞う。
ゴルドーは、信じられないという目で自らの肩口と綱成を見比べると、親衛隊に抱えられながら、森の闇へと消えていった。
「……くそっ」
綱成は、その場に膝をついた。肩からは夥しい量の血が流れ、オークの王の一撃が骨にまで達していることを告げていた。
「綱成様! お怪我を!」
配下の者たちが慌てて駆け寄る。
「騒ぐな。……大したことはない。だが……これ以上は、追えんな……」
彼は、ゴルドーが消えた森の闇を、悔しそうに睨みつけた。
死地の中心で、綱成が、血に濡れた刀を支えに立ち上がり、勝鬨を上げた。
それに呼応し、城壁の上の兵たちも、堰を切ったように雄叫びを上げる。
それは、苦戦の末に掴んだ、完全な勝利の瞬間であった。
櫓の上。氏康と共にその一部始終を見ていたリシアとドルグリムは、言葉を失っていた。
(これが……人間の戦い……。千の雷鳴が、ただの一方的な蹂躙へと戦を変えた。そして、あの将の、神がかった武勇……)
リシアは、目の前の光景に、畏怖とも嫌悪ともつかぬ感情で身を震わせた。
(見事なもんじゃわい。だが、あの『地黄八幡』の将を、ここまで追い詰めるとはな。オークの王も、大したもんよ)
ドルグリムは、北条の組織力、綱成の武勇、そしてゴルドーの意地、その全てにただ唸るしかなかった。
彼らが畏敬の念を向ける中、氏康はただ一人、眼下に広がる勝利の光景を、静かに見据えていた。
その目に映るのは、勝ち鬨を上げる兵たちの姿ではない。地に伏す骸、立ち上る硝煙、そして、この勝利のために支払われた、あまりに大きな代償。その顔に、勝利に酔う高揚はなかった。
(……これで、ひとまずは安泰だ。だが、これは、終わりではない)
彼の視線は、もはや目の前の戦場にはなく、この勝利の噂がもたらすであろう、次なる戦の気配――森を越え、山を越え、いずれこの地へ訪れるであろう、世界の本当の姿へと向けられていた。
東の森に突如現れた、恐るべき力を持つ、謎の人間国家「オダワラ」。
その名を、この世界の誰もが知ることになる。それは、新たな戦乱の時代の、まさしく幕開けであった。
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