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第九話:鉄牙、集結す


 転移から、数ヶ月が過ぎた。 


 小田原城下には、もはや昼夜の別がなかった。作事奉行・多目元忠の号令の下、休むことなく槌音が響き渡る。


 ドワーフの職人が持ち込んだ、岩盤さえも砕くという奇妙な仕掛けと、日の本の土木技術が融合し、土塁は日に日にその高さを増していく。


 城下の民は、その力強く伸びていく壁の影に、この見知らぬ世界で生きるための、確かな希望を見出していた。


 その日の評定は、一つの報告から始まった。


 評定の間の隅、影が不自然に揺らめいたかと思うと、そこに風魔小太郎が音もなく跪いていた。彼は、主君である氏康にのみ視線を向け、淡々と告げる。


「――西方、レミントン辺境伯領への斥候任務、完了いたしました。かの地は、貴族による圧政が敷かれ、民は疲弊。ですが、城塞の守りは固く、リシア殿の使う術に似た、不可思議な力を用いる一団の存在も確認。現時点での、我らへの敵意は不明。なれど、我らには確実に気づいておりまする。油断はなりませぬ」


 その報告に、いち早く反応したのは綱成であった。

「面白い! やはり、森の外にも手応えのある敵がおったか!」


 綱成は、居並ぶ家臣たちに向き直り、声を張り上げた。

「皆、聞かれよ! 西に人間の国があるとわかった以上、我らがなすべきは一つ! まずは、我らが背後であり、足元でもあるこの広大な森を、完全に我らの庭とすることだ! 森を支配するというオークどもを平定し、この地を盤石の拠点とする! そうして初めて、我らは西の人間に、憂いなく向き合うことができるのではないか!」 


 綱成の言葉に、氏照、氏邦ら若い武将たちが待ってましたとばかりに目を輝かせ、評定の間がにわかに戦の熱気を帯びた。だが、その熱気に冷や水を浴びせるような静かな声が遮った。


 氏政であった。


「お待ちいただきたい、綱成殿。オークの勢力や森の状況もわかっておらず、全面戦争となれば、我らの損耗も計り知れません。今は国力を蓄え、ドワーフとの交易や、医療院の拡充こそを優先すべきかと」


 その言葉は、武功に逸る者たちの勢いを削いだが、兵糧や物資の算段に日夜頭を悩ませる者たちにとっては、まさに我が意を得たものであった。


 大道寺政繁をはじめとする文官たちは、深く、そして、確かな同意を込めて頷いた。


 東の脅威に備え、まず足元を固めるべきか。あるいは、内政を優先し、力を蓄えるべきか。


 二つの意見は、評定の場で激しく火花を散らした。

 氏康は、その議論を黙って聞いていたが、やがて静かに手を上げた。


「双方の言い分、わからぬでもない。だが、いずれの道を選ぶにせよ、我らの足元はまだ固まっておらぬ。この話は、追って沙汰する」


 ◇


 その頃、家中の者たちがまだ知る由もなかった。彼らが議論する、その森の奥深くで、北条家の運命を揺るがす、巨大な脅威が目覚めつつあることを。


 オークの野営地「クラッグ・ドゥーム」は、不快な匂いと、不吉な音に満ちていた。


 腐りかけた肉の酸っぱい匂い、洗いもせぬ獣皮の臭い、そして、それら全てに混じり、何か得体の知れない、鉄が錆びるような血の匂いが、澱んだ空気を作っている。


 あちこちで、オークたちが意味もなく武器を打ち鳴らし、仲間と小突き合い、あるいは巨大な猪の骨をかじる音が響いていた。その全ての音には、奇妙な焦燥感と、追い詰められた獣のような苛立ちがまとわりついていた。


 この数ヶ月、森の様子がおかしかったのだ。獣たちは数を減らし、木々は枯れ、大地からは不吉な気配が立ち上っている。彼らは、ただ漠然とした飢えと恐怖に駆られ、その捌け口を探していた。


 中央の焚火の前で、大族長ゴルドー・アイアンタスクが、苛立たしげに大地を棍棒で叩いていた。彼の顎には、名誉の証である鉄の牙が鈍い光を放っている。


 そこへ、先日、風魔の襲撃から命からがら逃げ帰ったオークの戦士が、震えながら報告を捧げる。

「東の『石の山』に住まう者たちが、我らが同胞を狩りました!」


 その言葉が、引き金となった。

 ゴルドーは、全ての鬱屈した怒りと、部族に蔓延する不安を、その一点に集中させた。


「それだ! 我らが森の恵みが減ったのは、あの『石の山』の者どもが、全てを奪っているからだ!」


(……馬鹿め。確かにこのところ森の様子はおかしい。だが、それを全てあの『石の山』のせいにするのは、あまりに短絡的すぎる)


 ゴルドーの言葉に、飢えと恐怖に駆られた同胞たちが、狂信的な光を目に宿していく。No.2のグルマッシュは、その熱狂の渦から一歩引き、静かに舌打ちした。


 ゴルドーは、その反応に満足し、さらに声を張り上げた。

「全氏族に伝えよ! これより、かの地に現れた『石の山』を攻め、そこに住まう者どもを根絶やしにする!奴らの肉を喰らい、奴らの財産を奪い、大地の神の怒りを鎮めるのだ!」


 ゴルドーの宣言に、オークたちが一斉に武器を打ち鳴らし、野蛮な鬨の声を上げた。その狂騒を、グルマッシュは、この戦が部族を良からぬ方向へ導くであろうことを一人予感しながら、苦々しい目で見つめていた。


 半日後、評定の間に一つの影が滑り込んだ。風魔小太郎だ。彼の仮面の下から発せられた声は感情を排していたが、その一言一句が、その場にいた者たちの顔から血の気を奪っていく。


「……申し上げます。東の森に、オークの大軍勢を確認。その数、およそ三千。小田原に向かって進軍中。奴らの足では、あと二日の内には、この城壁に到達いたします」


 氏康が何かを命じるより早く、城下の物見櫓から甲高い警鐘が鳴り響いた。一つ、また一つと、その乱打は城下全体へと伝播していく。


 市場の喧騒が止み、子供たちの笑い声が消え、人々が不安げに空を見上げる。ようやく手にした安らぎが砕ける音がした。


 緊急軍議の場。


 「望むところ!」

綱成の咆哮が、戦の始まりを告げるかのように広間に響いた。対照的に、氏政は「……最悪の事態だ」と顔を曇らせる。


 二人は視線を交わした。立場も気性も違う。されど、見据える敵は一つ。先の評定で燻っていた不和の火種は、もはやそこにはなかった。


 氏康は、宗繁の描いた地図を広げ、その中央、小田原城を指し示した。


「皆、落ち着け。リシア殿の報せを思い出せ。オークどもは、個の武力は高くとも、組織だった戦を知らぬという。なれば、三千の軍勢とて、それは三千の獣。統率の取れた我らの敵ではない」

 評定の間に満ちていた焦燥は、氏康の静かな、しかし、揺るぎないその一言で断ち切られた。

 

 リシアからもたらされた確かな情報を根拠としたその言葉に、家臣たちの顔から不安の色が消え、確かな闘志が宿っていくのがわかった。


「そして、戦う場所は、我らが選ぶ。この数ヶ月、多目元忠が血反吐を吐く思いで築き上げた、この小田原を置いて、他にありはしない」


 氏康は、広げられた地図の上を、その軍配でゆっくりと叩いた。評定の間に満ちていた焦燥が、その一点に吸い込まれていく。


「オークどもは、獣だ。獣は、目の前の餌に、何の疑いもなく飛びつく」


 軍配が、最外郭の構えを指し示す。

「まず、ここで奴らの勢いを削ぐ。そして、意図的に門を一つだけ開け、内側へと誘い込むのだ。さながら、鼠を罠に誘うが如くにな」


 氏康の口元に、冷徹な笑みが浮かぶ。

「しかし、その先に待つのは、我らが、この日のために用意した罠だらけの『死地』よ」


「敵が罠の中で混乱し、その牙が鈍った、その瞬間――」


 軍配が、今度は城の側面にある虎口を、力強く突いた。

氏康の軍配が、地図の上を滑る。評定の間にいる全ての者たちの視線が、その一点に吸い寄せられた。


「――綱成!」


「はっ!」


「そなたは遊撃隊を率い、この虎口に潜め。わしが合図を送るまで、決して動くな」


 軍配が、城の側面を指し示す。


「敵が我らが仕掛けた『死地』で混乱し、立ち往生した、その瞬間。そなたが、我らが『槍』となるのだ。敵の中腹を食い破り、その胴体を二つに引き裂け!」


 綱成の目に、飢えた獣のような光が宿る。彼は、ただ一言、「御意」とだけ応え、その武者震いを抑えるように、固く拳を握りしめた。


 氏康は、続ける。その声は、冷徹な響きを帯びていた。

「鉄砲隊は、城壁の上に千全てを配置。綱成が敵陣をかき乱した、その瞬間を逃すな。――容赦なく、一斉射撃を叩き込め。良いな」


 籠城による消耗戦ではない。罠と、奇襲と、そして鉄砲による殲滅戦。氏康が示したあまりに明快で、そして、あまりにも冷徹な勝利への道筋に、家臣たちの顔から不安の色が消えた。彼らは無言で頷き合い、その視線は、もはや一つの揺るぎない意志と化していた。


 城外から、合戦の準備を告げる法螺貝の音が、低く、しかし力強く、響き渡ってきた。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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