第八十七話:最後の瀆神
静寂。
北条綱成が、その神業のごとき一太刀で、帝国軍の狂信者たちを縛る「理」そのものを斬り伏せた後。戦場は、敵も味方もなく、ただ、人の身でありながら神の御業を超えた「剣聖」の姿に、呆然と立ち尽くす、死んだような静寂に包まれていた。
その静寂を破ったのは、氏政の、若き獅子の咆哮であった。
「――今だ! 怯むな! 敵を、城門の外へと押し返せ!」
その声に、北条の兵たちが、はっと我に返る。
そして、それは、やがて、地を揺るがすほどの、勝利を確信した鬨の声となった。
崩壊しかけていた防衛線は、綱成という絶対的な柱を得て、逆に、帝国軍を圧倒し始めた。
「……面白い」
本丸の櫓の上で、その光景を見ていた総大将・北条氏康が、静かな獰猛な笑みを浮かべた。
「虎は、子を千尋の谷に突き落とすという。……だが、我が獅子の子らは、自ら谷底から天へと駆け上ろうとしておるわ」
彼は、傍らに控える伝令にただ短く命じた。
「――全軍に、狼煙を上げよ。東西の門に控える、氏照と氏邦、南の森に潜むエルウィン殿、そして、大手門のグルマッシュ殿に伝えよ。『狩りの時間だ』と」
高く小田原城の本丸から、黒い狼煙が上がった。
それは、連合軍の、全部隊に総攻撃の開始を告げる、血の合図であった。
◇
綱成という絶対的な「理不尽」を前に、完全にその戦意と統率を喪失した帝国軍。そこに、四方から、連合軍の、怒涛の追撃が襲いかかった。
それは、もはや戦ではなかった。
一方的な、「狩り」であった。
【東翼:北条氏照 対 鉄血の騎士】
「突けぇ! 突けぇ! 槍働きこそ、坂東武者の華よ!」
城の東門から躍り出た北条氏照率いる三千の騎馬武者は、狂ったような勢いで、潰走する帝国軍右翼へと襲いかかった。
氏照の朱槍が、帝国軍の指揮官の鎧を紙のように貫き、その首を次々と刎ね飛ばしていく。
だが、その狂乱の突撃の前に、一つの巨大な壁が立ちはだかった。
「怯むな! 貴様ら、それでも神に仕える騎士か! 皇帝陛下より賜った、この『鉄血』の二つ名を、泥に塗るつもりか!」
帝国軍右翼の指揮官、”鉄血”の異名を持つ将軍。彼は、五十歳がらみの、歴戦の猛将であった。彼は、己の親衛隊三百騎を再編し、崩壊寸前の戦線に、最後の防波堤を築こうとしていた。
「面白い! まだ、骨のある奴が残っていたか!」
氏照は、獲物を見つけた獣のように、その目を輝かせた。
「我こそは、北条源三氏照なり! いざ、尋常に勝負!」
「帝国北方辺境伯、ヴァレンティン・フォン・クラウゼ! 来い、異端の小僧! 我が鉄血の槍の錆にしてくれるわ!」
二人の将が、馬上で槍を交える。
ガキン、という、凄まじい衝撃。
氏照の、若さに任せた荒々しい一撃を、ヴァレンティンは、老練の技で、巧みに受け流す。
「青いな、小僧! その程度の腕で、よくもここまで!」
「やかましい、老いぼれが! 口だけは達者なようだな!」
二人の周りでは、北条の騎馬武者と、帝国の親衛隊が、血で血を洗う、壮絶な乱戦を繰り広げていた。
【西翼:北条氏邦 対 逃げ惑う者たち】
対照的に、西門から出撃した弟・氏邦の采配は、冷静沈着であった。
「深追いするな! 陣形を乱すな! 鶴翼の陣で、敵を包み込め!」
彼は、混乱する敵兵を、まるで碁石でも動かすかのように、的確に分断し包囲していく。
「くそっ! 罠だ! 囲まれるぞ!」
帝国軍左翼の指揮官は、早々に戦意を喪失し、自らの部隊を見捨てて、逃げ出そうとしていた。
「閣下! お待ちください! 我らを見捨てられるのですか!」
「黙れ! 貴様らが、ここで時間を稼げば、わしは、生き延びることができる! 光栄に思え!」
あまりにも醜い将の姿。
氏邦は、それを冷たい目で見下ろしていた。
「……将の器ではないな。全軍、あの、見苦しい将の首を獲れ。だが、武器を捨てた兵には、情けをかけよ。彼らは、もはや、兵士ではない。ただの、迷える羊に過ぎぬ」
氏邦の冷静な采配の前に帝国軍左翼は、完全にその組織を崩壊させた。
【大手門:グルマッシュ 対 神に見捨てられし者】
「ガアアアアア! 砕けろ! 潰れろ! 死ねぇ!」
大手門からなだれ込んだオークの軍勢は、もはや、人の言葉を話す災害であった。
グルマッシュの戦斧が、帝国兵の盾を、鎧を、そして、その下の骨ごと、肉ごと、叩き潰していく。
「……ああ、神よ。我らは、見捨てられたのか……」
圧倒的な暴力の前に、一人の若い聖堂騎士が、その場に膝をつき祈りを捧げ始めた。
「やめろ、馬鹿! 祈って、命が助かるものか!」
仲間が、彼を助け起こそうとする。
だが、その二人の頭上を、グルマッシュの巨大な影が覆った。
「神だと? ここにいるのは、俺だ。そして、お前たちの死だ」
戦斧が、振り下ろされる。
もはや悲鳴は、なかった。
【森:エルウィンとリシア 対 最後の抵抗】
そして、戦場を囲む、森の影。
「……リシア。聞こえるかい、森の嘆きが」
木々の上の陣で、エルウィンが、傍らに控えるリシアに、静かに語りかける。
「ええ……。ですが、今は、嘆いているだけではいられません」
リシアの瞳に、強い意志の光が宿る。
「この、我らを受け入れてくれた、新しい故郷を、守るために」
エルウィンは、頷いた。
「――全隊、放て!」
彼の号令一下、森の至る所から、数百の魔法の矢が、雨のように降り注いだ。
「ぐわっ! 足が!」「目が、目がぁ!」
それは、ただの矢ではない。
着弾した瞬間に、地面から、無数の蔦が伸びて、兵士たちの足を絡めとる「縛りの矢」。兵士たちの方向感覚を狂わせる、幻惑の光を放つ「惑わしの矢」。
エルフ魔法弓兵部隊による、狡猾で効果的な魔法の罠であった。
だが、帝国の騎士たちも、ただの烏合の衆ではなかった。
「退くな! 帝国軍人の、誇りを忘れたか!」
一人の、歴戦の老将軍が、その場で馬を止め、自らの旗の下に、残った兵たちを集め、必死の防衛線を、築こうとしていた。
「我らは、神の盾! ここで我らが退けば、枢機卿閣下が、危うい! この場を、一歩たりとも、退くことは許さん!」
誇り高き騎士の最後の抵抗が、北条軍の、そして、オークたちの、その猛攻を、一瞬だけ食い止めた。
だが。
ヒュン、と。
森の中から放たれた、一本の、風を纏った矢が、その老将軍の、兜の隙間を、正確に射抜いた。
「……ぐ……」
老将軍は、信じられないという顔で、自らの喉に突き刺さった矢を見つめ、そして、静かにその馬上から崩れ落ちた。
最後の、抵抗の核を失った帝国軍は、今度こそ、完全にその統率を失い、ただの逃げ惑う獣の群れと化した。
◇
その地獄の真っ只中。
枢機卿ロデリクは、数名の、最後まで残った聖堂騎士たちに守られながら、必死に、その戦場からの脱出を図っていた。
彼の、神々しいほどに整った顔は、泥と、血と、そして、完全な敗北者としての、屈辱にまみれていた。
(ありえぬ……。我が、神の軍勢が……。たかが、東の、蛮族どもに……!)
彼は、信じられなかった。
神の威光が、30万の軍勢が、そして自らの完璧な計画が、ここまで無残に打ち砕かれるとは。
その時。
「――見つけたぞ、帝国の神官様よ!」
雷鳴のような、獰猛な声が彼の耳を打った。
見上げれば、そこには、血に濡れた戦斧を担いだ、オークの族長グルマッシュが、仁王立ちになっていた。
そして、その反対側からは、氏照と、氏邦の、騎馬隊が、土煙を上げて回り込んでくる。
完全に包囲された。
「……これまで、か」
ロデリクの、護衛の騎士たちが、最後の覚悟を決めて、その剣を構える。
だが、ロデリクは、あまりにも惨めな自らの結末を前に、ついに、最後の理性の糸を自ら断ち切った。
「……そうか。ならば、よい」
彼の口元に、歪んだ、虚ろな笑みが浮かぶ。
瞳から、理知の光が消え、代わりに、底知れぬ、暗い狂気が、宿り始めた。
「貴様らが、我が神を、認めぬというのなら。この、腐った世界ごと、神の御許へと、還してくれるわ」
彼は、自らの胸に、その白い指を突き立てた。
プツリ、という、肉が裂ける音。
「我が血を、贄と捧げん」
深紅の法衣が、彼の、自らが流した血で、さらに、黒く染まっていく。
「我が肉を、器と成さん」
彼の体が、人間のものではない、禍々しい、紫色の光を放ち始める。周囲の空気が、凍りつき、護衛の騎士たちさえも、恐怖に後ずさる。
「そして――」
彼は、天を仰ぎ、かつて自らが神と信じた、その存在に向かって、最後の、そして、最大の、冒涜の言葉を吐き出した。
「我が魂を以て、汝の『不在』を、証明せん!」
その言葉が、引き金となった。
空が、割れた。
雲が、ではない。空間そのものが、まるで巨大な爪で引き裂かれたかのように、不吉な赤黒い亀裂を、走らせたのだ。
大地が、呻いている。
小田原城の、堅固な石垣が悲鳴を上げ、その至る所から亀裂が走る。
戦場にいた北条の兵も、帝国の兵も、もはや戦うことをやめた。
ただ、冒涜的で終末的な光景を、呆然と見上げるだけ。
やがて、空の亀裂の向こうから。
一つの、巨大な「何か」が、この世界へとその姿を現し始めた。
それは、ゆっくりと、しかし、抗いがたい力で、この世界へと、産み落とされていく。
人の形をしているようにも見えた。だが、その大きさは、城の天守閣さえも、見下ろすほど。
その体は、どす黒い、怨念の塊のようなものでできており、その表面からは、無数の苦悶に満ちた亡者の顔が、浮かび上がっては消えていく。
それは、この世界のいかなる生物とも違う。
ただ、純粋な、破壊と、憎悪の、化身。
異次元から召喚された、『災厄の化身』。
それが、大地へとその巨体を降ろした。
ズウウウウウウウウウウウンッ!!!!
凄まじい、地響き。
それは、何の言葉も発しない。
ただ、顔のないはずの顔をゆっくりと上げ、戦場にいる全ての生命体を見渡した。
その視線には、敵も、味方もない。
ただ、そこに生きる、全ての者への、絶対的な、そして、根源的な、憎悪だけが、満ちていた。
そして。
「aaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa」
それは、声なき声で咆哮した。
魂を直接揺りぶる、絶望の波動を前に、氏照も、グルマッシュも、そして、全ての北条の兵も、帝国の兵もその場に崩れ落ちた。
戦争は、終わった。
人の子らの、矮小な争いは、今、この瞬間、終わりを告げたのだ。
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