第八十六話:剣聖、戦場を断つ
大手門が、破られた。
その絶望的な事実は、物理的な破壊音よりも重く、小田原城の守備兵たちの心を圧殺した。
分厚い煙の向こうから、異様な熱気と共に雪崩れ込んでくるのは、人間ではない。痛みも恐怖も感じず、その身を聖なる爆弾へと変える狂信者『神罰の使徒』の群れだ。
彼らが命と引き換えにこじ開けた絶望の穴から、帝国十字軍の本隊が鬨の声を上げ、黒い鉄の津波となって城内へ侵入を開始する。
「……止めろ! 何としても食い止めろ!」
城門の内側、ドワーフの『鉄壁兵団』が必死の防衛線を築く。
だが、自爆を繰り返す狂戦士の前では、ミスリル合金の盾さえも紙切れ同然だった。爆風がドワーフの頑強な体を吹き飛ばし、炎が陣形を食い荒らす。
「若君! お下がりくだされ!」
櫓の上で、大道寺政繁が主君の腕を掴み、強引に引きずり下ろそうとする。
「いかん! このままでは、大手門どころか、二の丸まで一気に蹂躙されますぞ!」
「離せ!」
氏政はその手を振り払った。
「離せ、政繁! わしは退かぬ! ここがわしの死に場所ぞ!」
彼の瞳には、恐怖と、それ以上に深い絶望が渦巻いていた。
民を守ると誓った。父に、仲間に、必ず勝つと約束した。だが、現実はあまりにも残酷だった。
(父上。わしは……わしは、やはり、まだこの国を背負う器では、ありませなんだ……!)
彼が刀を握りしめ、自ら死地へと飛び込もうとした、その時。
「――そこまでだ」
凛とした一つの声が、戦場の喧騒を切り裂いた。
それは絶叫ではない。だが不思議なほど、全ての音を支配する静かで絶対的な響きを持っていた。
氏政も、政繁も、なだれ込んでくる帝国兵たちさえも、思わず動きを止めた。
声の主は、突破された大手門の、瓦礫の山の上に静かに立っていた。
いつからそこにいたのか、風魔の忍びさえ気づかなかっただろう。
その背には「地黄八幡」の旗指物。しかし、これまでの荒々しい黄金の闘気は、完全にその身の内へと沈黙している。
北条綱成。
彼は『沈黙の図書館』での試練を経て、その魂を「武神」の領域へと昇華させていた。
「面白い」
綱成は、眼前に広がる地獄絵図と、殺到してくる狂信者たちを静かに見据えた。
「神の使徒、だと? ……下らぬな」
彼は愛刀『獅子奮迅』を、ゆっくりと鞘から抜き放つ。
「そなたたちが神の御業の代行者であるというのなら、この北条綱成が、今この場で、その神の理そのものを、斬り伏せてくれるわ」
「何を戯言を!」
先頭にいた聖堂騎士が叫んだ。目は白く濁り、全身から聖なる炎を噴き上げている。
「たった一人で我ら神の軍勢を止められるとでも思うか! 異端の悪魔め、灰になれ!」
騎士が突進し、その身を爆発させようとする。
綱成は動かない。
彼はただ静かに、迫りくる「理」を見つめていた。
(見える)
騎士を動かす狂信という名の精神の枷。魂を神罰の使徒へと変えた、禁忌の聖術の歪んだ魔力の流れ。そしてその根源にある、枢機卿ロデリクの醜悪な支配の意志。
綱成は刀を振るわない。
ただ、その切っ先を、突進してくる騎士の、寸分違わぬ力の中心、ただ一点へとすっと差し入れただけ。
それはもはや剣技ではなかった。
【剣聖】の力が完全に覚醒した彼が見出した、この世界の法則そのものへの干渉。
パキン、という硬質な音が響いた。
騎士の体が硬直する。爆発は起きない。彼を包んでいた聖なる炎が、まるで風に吹かれた蝋燭のように、ふっと掻き消えたのだ。
「……あ、あ……?」
騎士が信じられないという顔で、自らの手を見つめる。
その無防備な胸に、綱成はその刀の「柄」を、静かに、しかし重く叩き込んだ。
騎士は白目を剥き崩れ落ちる。
綱成はその体を、まるで邪魔な石ころでも蹴るかのように脇へと転がした。
「……次」
あまりにも人間離れした光景。
殺到していた帝国兵たちの足がぴたりと止まった。
「怯むな! 奴は一人だ! 囲んで殺せ!」
後方から指揮官の怒声が飛ぶ。
だが、兵士たちの体は動かなかった。本能が理解してしまったのだ。目の前の男は人ではない。人の形をした「死」そのものであると。
「来ぬか。ならばこちらから参るぞ」
綱成は初めてその一歩を踏み出した。
彼は走らない。ただ、ゆっくりと敵陣の中へと歩いていくだけ。
その一歩一歩が戦場の「理」を塗り替えていく。
向かってくる剣を、彼はいなさない。ただその剣が振るわれる「理」を斬ることで、切っ先を逸らす。
放たれる魔法を、彼は避けない。ただその魔法が編み上げられる「理」を斬ることで、術式を霧散させる。
一方的な「理」の書き換え。綱成が通る道には、武器を失い、魔法を失い、戦う意志を剥奪された兵士たちが、糸の切れた人形のように転がっていく。
「おのれ、おのれ、おのれぇ!」
その光景を遥か後方から見ていたロデリクが絶叫した。
「神罰の使徒よ! 最後の祈りを捧げよ! あの悪魔に、神の鉄槌を!」
その狂信の命令。
まだ戦場に残っていた数百の「神罰の使徒」たちが最後の鬨の声を上げ、その身を聖なる炎の爆弾へと変えながら、綱成ただ一人へと殺到した。
まさしく神の鉄槌。
数百の太陽が同時に地上に生まれたかのような、回避不能の熱量。綱成は、その光の奔流の中心で、静かに目を閉じた。
そしてその手に持つ『獅子奮迅』に、ただ一言語りかける。
(頼むぞ、相棒。このくだらぬ神の理、共に斬り伏せようぞ)
彼は刀を一度だけ振るった。
横薙ぎの一閃。
その一太刀が、世界を二つに分けた。
静寂。
爆発は起きなかった。
聖なる炎は全て消え失せていた。
数百の「神罰の使徒」たちは、突進の姿勢のまま、静かに動かなくなっていた。
彼らを縛り付けていた禁忌の聖術の、歪んだ魔力の奔流。それを綱成のただ一太刀が、その因果律の根元から完全に断ち切ったのだ。
呪縛から解放された兵士たちは、瞳から狂信の光を失い、ただの疲れ果てた人間の顔に戻り、そして次々と崩れ落ちていった。
彼らはもはや爆弾ではない。ただの、動かぬ肉塊であった。
あまりにも神々しく、そしてあまりにも理不尽な一太刀。
それを見ていた全ての者が言葉を失っていた。
北条の兵も帝国の兵も、もはや敵も味方もなかった。人の身でありながら神の理さえも斬り伏せた「剣聖」の姿に、ただひれ伏すしかなかった。
綱成はその静寂の中心で、ゆっくりと刀を鞘に納めた。
カチン、と鍔鳴りが響く。
そして未だ呆然と立ち尽くす甥、氏政へと振り返ると、いつものあの悪戯っぽい、豪快な笑みを浮かべた。
「さて、氏政。ぼうっとしておらんで、さっさと反撃の狼煙を上げんか」
その一言が、止まっていた戦場の時を動かした。
本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。
皆様の応援が、何よりの執筆の糧です。よろしければブックマークや評価で、応援していただけると嬉しいです。




