第八話:異世界百景
小田原に、新たな法と秩序が根付き始めた頃。
本丸御殿の一室では、北条氏康と幻庵が、数枚の地図を前に腕を組んでいた。それらは、リシアやドルグリムからの聞き取りを元に作成された、この世界の最初の見取り図であった。
「……これだけでは、まだ足りぬな」
氏康が、低い声で言った。
「川は一本の線で描かれているが、その深さ、流れの速さ、岸が沼地か岩地かもわからぬ。これでは、兵を渡すことも、を橋を敷くこともできぬ。我らは、この地の真の姿を、もっと正確に知らねばならぬ」
幻庵も、深く頷く。
「おっしゃる通り。絵地図だけでは、土地の高低差も、土の色もわからぬ。正確な『知』こそが、我らの最大の武器となりましょう」
「うむ」と応じた氏康は、傍らに控える小姓に命じた。
「絵狩野宗繁を、ここへ」
やがて、大柄ながらも、どこか俗世から浮き上がったような雰囲気の男が、静かに広間へ入ってきた。
当代随一と謳われる、北条家お抱えの天才絵師、狩野宗繁である。
彼は、この異変以降、見たこともない風景や動植物を前に、創作意欲を激しく燃え上がらせていたが、同時に、自らの無力さも感じていた。
「宗繁。そなたに、新たな役目を与える」
氏康は、その男に、真っ直ぐな視線を向けた。
「そなたのその筆で、この世界の真の姿を写し取ってほしい。山を、川を、森を、そして、そこに棲む全てのものを、あるがままに描き、記録するのだ。検地役人の測量では測れぬ、土地の『性質』そのものを描くのだ。そなたの絵が、この先、我ら北条の『目』となる。……できるか」
氏康の言葉は、宗繁の魂を直接揺さぶった。彼は、無意識に自らの指先を見つめる。これまで数多の山水や花鳥を描いてきたこの指が、今、この国の未来そのものを描こうとしている。
(ただ美しさを写し取るのではない。この国の礎を、この筆で築くのだ――)
その、絵師としてこれ以上ないほどの天命を前に、宗繁は武者震いを禁じ得なかった。
「はっ……! この狩野宗繁、身命を賭して、お役目を果たしてご覧にいれまする!」
数日後、城門から、一見して不釣り合いな一団が出立した。
荷駄に積まれた大量の和紙や絵の具箱を運ぶのは、まだ若い二人の弟子。その中心で、絵師・宗繁は、これから赴く未知の森羅万象を写し取らんと、探求者の鋭い目で周囲を観察している。
そして、その一行と付かず離れずの距離を保ち、まるで風景に溶け込むかのように付き従う、四つの影。――風魔忍軍である。
美を写し取ろうとする者と、その美の裏に潜む全ての危険を排除する者たち。二つの全く異なる目的が、一つの旅路の上で、奇妙な形で交わろうとしていた。
森は、彼らを呑み込むように、どこまでも深く、そして濃かった。
天を突くほどの巨木が、幾重にも枝を重ね、陽の光を遮る。その木々の間を、見たこともない蔦が蛇のように絡みつき、地面には、湿った腐葉土の匂いと、甘くも不気味な花の香りが満ちていた。
「おお……! なんという巨木だ! この、龍の鱗のごとき樹皮の質感……! 見たこともない!」
宗繁が感嘆の声を上げる。
「宗繁殿、あまり前に出るな。あの木の上には、針を飛ばす猿に似た化け物がいる」
風魔の小頭が、感情のない声で制する。
「なんと! それはぜひとも写生せねば!」
「……今は、危険だ。やり過ごす。あの花も、見た目に反し、甘い香りで獲物をおびき寄せ、根で捕らえる食虫植物。近づかれぬよう」
風魔の小頭の男の目には、この森の全てが、危険度と対処法によって分類されていた。
宗繁の目には、その全てが、驚きと美に満ちた画題に映っていた。
その夜、一行は野営の準備をしていた。
焚火の心許ない光が、周囲の闇をわずかに退けている。日本の森とは違う、生き物の気配が濃すぎる闇だ。聞いたこともない鳥の声、獣の遠吠えが、絶え間なく響いている。
宗繁は、興奮のためか、なかなか寝付けずにいた。
「……眠れぬか」
背後から、小頭が静かに声をかけた。
「うむ、どうにも目が冴えてしまってな。この闇の色、この星の輝き、全てがわしの心を掻き乱す」
「わかる。俺たちも同じだ。この森では、一瞬たりとも気は抜けん。全てのものが、我らを試している」
「試している、か。面白いことを言う。わしにとって、この森は、わしの画才を試す、巨大な画題そのものやもしれん」
異なる立場の二人が、焚火を挟んで短い言葉を交わした。
旅の三日目。
一行は、視界が開け、陽光が差し込む、不思議な場所にたどり着いた。
そこは、巨大な川が緩やかに蛇行する、広い川辺であった。川の水は水晶のように澄み、川底の白い砂が日の光を反射して、きらきらと輝いている。その輝きは、まるで天の川が地に降りてきたかのようであった。
そして、その川の中には、所々に、家ほどもある巨大な亀の化け物が、苔むした岩のような甲羅を干し、微動だにせず眠っていた。その甲羅の上には、さらに小さな木々が生え、まるで動く島のように見える。
「……見事だ」
宗繁は、息を呑んだ。
穏やかに眠る巨大な亀、輝く川面、そしてその向こうに広がる、どこまでも青い空。
彼は、この地に来て初めて感じた、恐怖ではない、純粋な「畏怖」の念に、心を奪われた。
(この光、ただの白ではない。月光と真珠を混ぜたような、冷たくも柔らかな輝きだ。唐紙に胡粉を重ね、その上から薄く溶いた藍を……いや、それではこの透明感は出ぬ……!)
彼は、全ての警戒を忘れ、夢中で筆を走らせ始めた。
木炭で紙に大まかな輪郭を取り、記憶と目に焼き付けた色彩を、筆と墨で再現していく。
風魔たちもまた、その光景には敵意がないことを察し、宗繁の周囲を固めながら、静かにその様子を見守っていた。
だが、その時。
背後の茂みから、一匹の森狼が、音もなく飛び出してきた。
それは、宗繁の描く牧歌的な光景に、牙を剥く現実であった。
「宗繁殿、伏せろ!」
小頭が叫ぶと同時に、数本のクナイが、狼の進路を阻むように地面に突き刺さる。
狼は、一瞬怯むが、すぐに体勢を立て直し、宗繁に狙いを定める。
その、一瞬の隙で十分だった。
宗繁の背後を守っていた二人の忍が、左右から同時に狼に斬りかかる。
狼は、その一撃を辛うじて避けるが、体勢を崩したところに、小頭の刃が閃光のようにその首を刎ね飛ばした。
全てが、瞬きする間に終わっていた。
宗繁は、震える手で、まだ動いている狼の死骸を見つめていた。
「……なんと。この獰猛さ、この躍動感。これもまた、美か……」
彼は、恐怖を乗り越え、再び筆を取った。
今度は、死してなお、猛々しい生命力を感じさせる狼の姿を。
◇
数日後、城へ戻った宗繁は、氏康の前に完成した数枚の絵図を広げた。
一枚は、巨大な亀たちが眠る、光り輝く川辺の壮大な風景画。その光と水の表現は、観る者の心を奪うほどの出来であった。
そしてもう一枚は、牙を剥き、躍動する森狼の、恐ろしくも美しい生態図であった。そこには、筋肉の付き方や、爪の鋭さ、牙の長さなどが、克明に書き込まれていた。
「……見事だ」
氏康は、ただ短く、そう言った。
その絵を見た綱成は、「ふむ、喉元ががら空きだな。そこを狙えと兵に伝えよう」と、狼の弱点を見抜いた。
氏政は、絵の背景に描かれた土地の起伏から、新たな水源と、その周辺の危険度を一目で把握した。
それは、芸術であると同時に、最高の報告書でもあった。
「宗繁」
「はっ」
「この連作を、『異世界百景』と名付ける。これより、これを国家事業とする。資材も、人員も、惜しみなく使え。異世界の全てを、描き尽くすのだ」
「ははっ! これに勝る喜びはございません!」
宗繁の目には、芸術家としての新たな炎が、燃え盛っていた。
彼の描く絵が、やがて北条家の進むべき道を照らす、かけがえのない地図となることを、この時の彼はまだ知らなかった。
本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。
皆様の応援が、何よりの執筆の糧です。よろしければブックマークや評価で、応援していただけると嬉しいです。