第零話:黎明の合戦
本日より新作を投稿開始します。
歴史ものが書きたい!でも、異世界転生も書きたい!という気持ちからできた作品です。
しばらくは一日数話投稿を続ける予定です。
泥の匂いがした。
鉄と、血と、そして、すぐ隣で恐怖に震える、自分よりさらに若い少年兵の汗の匂い。
名もなき足軽は、塹壕の縁から、夜明け前の戦場を睨みつけていた。眼前に広がるのは、三十万の軍勢が放つ、無数の篝火。それは、地上に落ちた、絶望という名の星座であった。
彼は、冷え切った握り飯を無理やり喉の奥へと押し込むと、震える少年兵の肩を、無言で一度だけ強く叩いた。
ふと、顔を上げる。
背後にそびえる巨大な城郭、その城壁の上を、月光を浴びて銀色に輝く、優美な人影が歩哨に立っている。長い耳を持つ、エルフの射手であった。
地の底からは、地響きのように、屈強な者たちの仕事歌と、夜を徹して武器を鍛える槌の音が響いてくる。この城の礎を守る、ドワーフたちの音だ。
自分たちは、あり得ない者たちと共に、この絶望的な朝を迎えようとしている。
やがて、東の空が白み始め、敵陣から、進軍を告げる角笛が、空気を引き裂くように鳴り響いた。
櫓の上から、総大将が掲げる軍配が、振り下ろされる。
「――かかれッ!!」
腹の底からの絶叫と共に、足軽は、泥濘を蹴った。隣の少年兵も、泣き顔のまま、槍を握りしめて後に続く。
世界が、音と、怒号と、鋼のぶつかり合う絶叫に包まれた。
乱戦。
もはや、陣形などない。ただ、押し寄せる鉄の津波に、飲み込まれまいと、必死に槍を突き出すだけ。
敵の騎馬隊が、側面から突撃してくる。死を覚悟した、その瞬間。
彼のすぐ横で、大地が割れたかのような衝撃音と共に、ドワーフの屈強な兵士が、巨大な鉄の盾を地面に突き立て、その衝撃を一身に受け止めた。「小僧、ぼうっとするな!」という怒声。
その背中に守られ、足軽は、再び槍を構え直した。
敵の騎士と、刃を交える。技量が違う。体格も違う。じりじりと押し込まれ、ついに体勢を崩した。騎士の剣が、とどめを刺さんと、振り下ろされる。
だが、その剣が、彼の喉に達することはなかった。
一本の、光の矢が、夜明け前の闇を切り裂き、騎士の兜の隙間を、正確に射抜いていた。
崩れ落ちる巨体。足軽が、はっと城壁を見上げると、銀髪のエルフが、彼に小さく頷き、既に次の矢を番えているのが見えた。
気がつけば、彼は、味方とはぐれ、敵兵の真っ只中にいた。
背後から、剣が迫る。もう、避けられない。
だが、その剣は、肉を裂く代わりに、甲高い音を立てて弾かれた。振り返ると、そこにいたのは、桃色の肌を持つ、巨大なオークの戦士。
彼は、その巨大な戦斧で、足軽を狙った敵兵を、盾ごと叩き潰していた。
オークは、足軽を一瞥すると、言葉もなく、ただ、にやりと牙を剥き出しにして笑った。そして、自らの広大な背中を、足軽に預けるようにして、次の獲物へと躍りかかる。
足軽もまた、その背中を守るように、槍を構えた。
そこには、種族を超えた、戦場だけの無言の信頼があった。
だが、戦況は、あまりにも絶望的だった。
味方が、次々と倒れていく。あの、震えていた少年兵も、いつの間にか、泥の中にその姿を消していた。
足軽の肩を、敵の矢が貫く。激痛に、彼は、その場に膝をついた。
目の前には、勝ち誇った顔で迫ってくる、数人の帝国兵。
(……ここまで、か)
彼が、全てを諦め、目を閉じようとした、その時。
地響きが、鳴った。
帝国軍から、悲鳴が上がる。
一団の、精鋭騎馬武者たちが、まるで巨大な楔のように、敵陣の中央を、いとも容易く食い破ってきたのだ。
その先頭に立つのは、「八幡」と書かれた朽葉色の旗指し物を背負う、我ら自慢の剣聖。
眼前に広がる三十万の軍勢は、彼の目に、恐れを映しはしない。むしろ、かつて故郷の世界で対峙した、十万の軍勢を思い出させていた。
『龍』とまで謳われた好敵手が率いた軍勢さえも、この光景の前では霞んで見える。だが、彼の口元には、獰猛な笑みさえ浮かんでいた。
足軽は、その男の姿を、そして、城に掲げられている、三つの鱗をかたどった旗印を、ただ、呆然と見上げた。
(まだ、戦える)
その瞳に、再び、生きるための、戦うための、熱い光が宿った。
――なぜ、彼らは共に戦うのか。この絶望的な戦場の先に、いかなる未来があるのか。
全ては、遠い世界の東の島国から、一つの城が、幾万の民と共に、この世界へ現れた、あの日から始まったのだ。
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