私信:「妹」
はじめに、これを読んで精神的不調に陥らないよう、心が平穏を保っているような方のみ、以下の文を読んでいただきたいです。
もうあと少ししたら、瑠衣が入院したあの出来事から2年になる。こんな文体で気持ち悪いかもしれないが、許していただきたい。私から見てどういう文脈であの出来事に至ったのかを説明したいと思って筆を執った。仮に私があなた方の立場だったら、気分は悪くなるけれど、満たされる何かがあるかもしれないと考えている。
また、あくまでこれは私から見た視点の記録であって、恣意的な表現が含まれていることを前置きしておく。
私が小学校に通っていたころの話では、家出をしたことについて書きたいと思う。家出といっても、電車に乗ってどこかへ、とか、ネットカフェに行って一晩、とかそういうものでもない。もちろん小学生だったからという事もあるが、私の家では徒歩2分のところにある公園がゴールだった。
芝生に転がりながら兄と見た夜空は、都内とは思えないほどきれいだったことを覚えている。この家出は1人ではなく兄と一緒にしたもので、玄関先で「お前も来る?」と問われた結果のものだった。そうはいっても、兄が自発的に行ったことなのかと振り返ってみると、そうとは言い切れないと思う。玄関先で問われたとき、僕の背中を押したのは、後ろから聞こえてくる怒鳴り声と大きな破砕音だったからだ。
家出はものの数十分で終わったような気がする。そして、何か特別怒られることもなく、何も変わることもなく、日々が続いていったように思う。父と母は怒鳴り合い、脚の長い机がひっくり返り、お皿が割れる。日常茶飯事というほどではないけれど、月に数度あるかないか。自分の部屋で布団を被りつつ、ドアの隙間から父の様子をうかがっていた。決して目は合わせないように。
兄が中学生になる日が近づくにつれ、構造が複雑になった。生活の変化の予兆は、より大きな家庭内での摩擦を生んで、それはその鎹をも巻き込むようになったのだ。自分が家庭に変化をもたらしているという責任からか、父と兄との対立が目立つようになった。もっともそれは反抗期と括られないほどの暴力性があって、私はそのころに家の中で響く音が怖かった。重く鈍く断続的に聞こえる足音、物が部屋を跳ね回っている音、弱く泣いている声、強く怒鳴り合う音…それを斜め下に机が転がっているのを見ながらただ椅子に座って聞くこともあれば、音が現実より小さくなるように布団にくるまりながら祈っていることもあった。
この時僕は、渦中には決して立ち入らなかった。きっとこの波は過ぎ去ってくれると。事実、凪の時間もあれば、海水浴だってできた日もあったのだ。1家5人で車に乗って、千葉県のプールに行った1日、24時間の魔法のひとときが。それでも、母は泣くたびに老け、妹はあまり泣かなくなり、兄の外からは見えない傷が増えていった。そして父の顔をまともに見れない日が続いていく中、私は小学校を卒業した。
私は私立の中学校を受験した。改めて考えると、兄も妹も私立に進学していく中で、家計について話題が上がるのは必然で、その中で折り合いがつかないとなると、向かう結論はひとつだったのは当然である。ことあるごとに話題に上ったのは、車の買い替えだったと思う。父が突然フォルクスワーゲンのSUVを買ってきたのだ。具体的にいくらだったのかは知らないが、車という支出が個人のお小遣いに収まるような家庭ではなかった。
また、それとは別に暴力もぜんぜん継続していた。父は身長が180超えるくらいあって、恐怖を感じるようになってからはまともに向き合うことはできなかったと記憶している。そしてそれはいくところまでいく…前に父と母は離婚した。野球のバットが用いられかねないところだったので、当たり所によっては危なかっただろう。
そう、向かうべき結論は離婚であり、それは遅いか早いかの問題であったと思う。そして、これが時期として正しかったのかどうかはわからない。ここで私の中で大きかったのは、誰にもこのことを話さなかった、という事である。それはつまり表面的には変化を悟らせないようにしていたという事でもある。それこそ苗字は変えずに通したし、特に父親のことを聞かれても、適当につじつまを合わせていた。
正直、嘘をつき続けるという事は面倒だった。でも、それを開示する方がより面倒なことは明らかで、リスクの大きい年齢でもあった。それでも、どこか人には言えないものを抱えているということは、ずっと重荷としてあった。このことについて、一度だけ妹と言葉を交わしたことを覚えている。それはしばらく経った後のことで、私がひとりの友人に打ち明けた後のことだった。だから「実はひとりにだけ話したことはある」と言い、「何か言われなかった?」と返され、「そういう人を選んで話した」と伝えた。
自分は友人は多くはなく、かといって少なくもないが、中学の頃にこの話ができたのはひとりだけであった。特に、この話の複雑な点は、個人的な相談をしたいときの前提条件になりうること。そして、その難易度の高さがそのまま個人的な話題のしづらさにつながることだ。別に友人全員に相談できるような必要はないが、思春期にする相談が上滑りしてしまうような環境は健全ではなかったと思う。
気づけば、生活は変化していた。私は12時に「すいません、寝坊しました」と言いながら教室のドアを開ける。教室のみんなは「本当かよ」と笑う。夜ご飯は週に数度、出来合いの物を自分で買うことが多くなった。私は時間の融通が利き、まじめで自立している側面も持ち合わせていたため、そういう役回りを担った。それをひとり、ないしは妹と食べつつ、眠くなったら布団に入る。
家の中が静かになっていった。必要な会話はすれど、四者四様の生活をしているように感じた。もちろん、お互いが買ってきた漫画を兄と共有することや、ごくまれに妹と一緒にゲームをするような瞬間はあった。ただ、4人そろって食事をすることは、日常の中では減っていき、家族の輪郭がつかめなくなっていった。
子どもの頃は、時間が進むと節目を自然と迎えてしまう。台風一過のような中学時代が終わり、高校に入学することになる。大学までの一貫校であったため、この先も苦労することなく進学していくことは約束されていた。だからこそ、私は高校の3年間でスポーツに打ち込んでみようと思ったのだ。それは野球を小中高と続けている兄へのあこがれでもあり、自らの身体能力に対する盲信でもあった。
そうして始めた部活は、それまでの時間の中で1番幸せだったと思う。それはいろいろな大会に出場したことはもちろんのこと、部活という共同体が成立していたことが大きかった。漕艇という性質から、一緒に過ごす時間が長く、それでいて互いに切磋琢磨しあうような緊張感も持ち合わせていた。何より、それが大きなウエイトを占めるほどに、部活動のことを中心に生活することが私にとって何より充実したひと時だった。
そうやって生活しているうちに、家からは音が聞こえなくなった。それはひとり少なくなったから、というだけでは説明がつかないものであり、同時に逃げ道を失ったものでもある。それはこれまで物音を立てずに過ごしてきた私が気づくべきことであった。そして、気づかされた時にはもう手遅れであった。 私が17歳、高校3年生の6月のころ、期末試験を控え、家で過ごしていたときのことだった。
「もう野球はやらないの?」「やらないよ」
「私が監督に電話してあげるよ、○○さんから色々と言われてるかと思いますが、全部嘘ですって」「そんなことないから、やめて」
「ううん、陣ちゃんは騙されてるんだから。○○くんと仲良かったから信じてないかもしれないけど、あいつらはそういうやり口なんだから、ね。私が電話してあげるから。また大学で野球しよう?」「もういいかげんにしてくれよ」
「わかった、お母さんが気づけなくてごめんね。でも今ならまだ間に合うんだから。ね。陣ちゃんには才能があるってお母さん知ってるから。大丈夫。また頑張ろう。ほら電話するから貸して」「やめて、近づかないで」
「なんでそんなこと言うの?陣ちゃんも○○に洗脳されちゃったの?ほら、いいから貸して。監督に『○○さんの言ったことは全部嘘ですから。私たちは盗聴されて、あることないこと吹きこまれたかもしれませんけど』」「あんたも1年間懲りないな、もう寝てくれよ。俺もう寝るから」
私はまず、母の精神がはっきりと病んでしまっていることに気づいた。それから、大学に入ってから1年間、ことあるごとにこれを言われていたと気づいて、絶望した。それでもなぜか、母に対して説得を試みていた。
私は、兄と同じ高校に通い、野球部の知り合いもいて、何より同じ体育会の部活だった。そして自分自身、漕艇という規模の小さな部活ではあったが、大会への出場には実力以外の尺度は用いられなかった。正直に言って、性格に難があるわけでもない、素行が悪いわけでもないのに試合に出られないのは実力が足りない以外に理由が見つからない。そう、伝えた。この家の中で、そんな話をするのは胸が締め付けられた。しかし、どれだけ言葉を尽くしても、母の顔に張り付いた、口をへの字にした薄ら笑いは、その表情を変えなかった。いままでで一番長く泣いた日だった。
それから、母と兄との会話は、長く続かないようになった。基本的に兄が無理やり切り上げる形で終わっていて、それについて私が口をはさむこともなくなっていた。
私は、当然のように大学へ進んだ。特に阻むものもなく、努力もなく、大学生となった。心の中で漕艇を続けていたい気持ちはあったが、大学で漕艇をやるという決断には多くの障害を感じていた。それは金銭的な面であり、家を長期間空けるという精神的な不安もあった。
その不安を予感させる1つの変化は兄だった。端的に言うと、暴力を振るうようになった。それは、母との会話がより攻撃的になったことや、家具を引き倒すというという事である。母はお父さんみたいになっちゃったよ、と言った。
それでも、そのバランスは傾きながらも決壊はしないように思えた。兄は追い詰められたときに行動する勇気を持っているし、どうしようもないときに頼れる誰かがいるように感じたからだ。だから特に私は何もしなかった。私はなにか悪いことをしているわけではないし、何もしないことは悪いことではないからだ。
私が20歳、大学2年生の12月のころ、サークルでの催し物を終えて、家で一息ついていた時のことだった。
「ちょっと前から、瑠衣の様子が変なのはお前も気づいてるだろ」私は数日前に妹と奇妙なやり取りをしたことを思い返した。
「今朝もね、マンションの屋上から飛び降りようとしちゃって、お母さん慌てて止めて」少し前から、妹が感情的になっていたことを思いだした。
「俺が明日の朝一で病院に連れて行くから、お前もそのつもりでいろ」
傍らで「臭くない?臭くない?」「臭くないよ。大丈夫」というやり取りがなされているのを見ないふりをした。
久方ぶりに4人で夕食をとった。兄妹の誕生日の時、まれに4人で食卓を囲むことがあるのを思いだした。ただ、兄の口数の多さと口調の柔らかさはいつもと違っていた。そのことが私の目の熱を冷ましてくれた。その日は、狭いリビングで4人川の字で横になっていた。少しの物音が聞こえるのが怖かった。少しの物音を立てるのも怖かった。このまま夜が明けるまで、何事も起きないでくれと祈った。
朝方、3時過ぎのことだった。妹がむくりと立ち上がり、台所の方へ向かった。妹はおもむろに、両の手で包丁を握った。母親が先に反応し、妹の手を押さえた。私もそれに続いて、妹の手を押さえた。その時、2人がかりで引き離そうとしているのに、なぜ妹の持つ包丁は胸元から動かないのだろうと単純に疑問だった。母からは絶対に離さないでよ、と怒鳴られ、兄は119番をコールしていた。母が何とか包丁を奪ったあと、暴れ回る妹を3人がかりで抑え込んだ。明らかに体格には不釣り合いな力を感じた。私が着ていたパーカーのポケットを足で引きちぎられたことを覚えている。
兄が上半身、母と私で片足ずつ担当しながら、救急車が来るのを待った。妹の激しい息遣いが、その空間を埋めていた。やがてサイレンが聞こえ、救急隊員が入ってきた。こんなに近くで見たのは初めてだな、と思いながら妹を引き渡した。同時に警察も入ってきた。私は年齢と生年月日を答えたような気がするが、警官の緊張感のない声色とシンクに無造作に置かれた包丁のことしかまともに覚えていなかった。私が状況を理解するころには、妹は少し落ち着いた様子で、あまり言葉を発さないまま、家を出てパトカーに乗った。母は同じ車に、兄は2台目のパトカーに乗っていった。私は1人、家に残った。
その後、私はシャワーを浴びて、エル・クラシコを見て、寝た。起きてしばらくすると兄が帰って来て、あの後の話を聞いた。あのあとパトカーが向かったのは精神病棟のある大きな病院で、入院手続きを行ったのだという。その際、普通の入院は時間外であり不可能で、措置入院という選択肢があった。当然、緊急性が高い場合にはそうするべきであったが、その履歴が残ることは有利には働かないということと、妹の状態を天秤にかけ、医師が会話をしながら任意入院が可能な時刻になるまで粘るという措置をとったという。そして、それは無事成功し、今は病院で過ごしていると兄はまとめた。
私は音を立てず兄を見つめながら涙を流していた。名前も顔も知らない医者のやさしさは、今日1日の中での唯一の光に感じた。ただ、別段発すべき言葉が見当たらなかった。そうやっているうちに兄が続けた。
「瑠衣のことを説明するときに、お母さんのことも入院先の先生と話した。前にも言ったけど、俺も少し前から病院に通って話を聞いてもらってた。今度、お母さんとそっちにも行くつもりで、お母さん自身とも改めて話そうと思っている。」
最近のやり取りは、俺の通ってる病院であんたも診てもらった方が良い、みたいな感じだったことに思い至った。
「俺の友達に瑠衣と同じ、というのは違うけれど、精神を病んでしまった人がいる。普段は普通に話せるいいやつで、だけど、ときどき、今日の瑠衣のようになってしまうことがあるらしい。実際に俺が見たことがあるのは1度だけだけれど。そして瑠衣は、そもそも普通に話せるようになるのか、そうなるまでにどれくらい時間がかかるのかはわからない。ひと月ふた月とかじゃなく、1年2年、あるいはもっとかもしれない。そういう覚悟はしておいてほしい。」
「そういうものなんじゃないか、という認識はあるよ」
私にはそういう認識が確かにあった。普段の生活からこういう事が起こりうる予感があって、世間のニュースやSNSで見られるような事柄の中に、他人事だと思えずに受け止めているものがあった。
「・・・とりあえず、後は入院に関することで、毎週何回か、服を持っていくとか、そういうことが必要らしい。一応お母さんと俺がやるけれど、都合がつかないってなったらおまえにも手伝ってもらうから」
「うん、わかった」
私は覚悟を持って了承した。もっとも、これが多く起こらないことも予感していた。事実、私が病院に行ったのはただの1度きりで、母の付き添いとして、入院初期の大きな荷物を運ぶ時だけだった。私のイメージに違わない病棟だった。
その後も事務的なやり取りをした後、兄が言った。
「今回のこと、誠はどう思った。別に何も言わなくてもいいけど」
「…何だろう。いつか起こるかもとは思っていたし、それはお母さんだろうと思っていたけど、それが思ってたよりも早くて、先に瑠衣だったのは予想外だった。という感じかな。でも、お母さんと瑠衣は近すぎたし、不思議じゃないとも思ってる」
「ふぅん…、どうすればいいと思う?」
「瑠衣とお母さんを物理的に引き離すしかないんじゃないかな…良くなるかはわからないけど、悪くなることもない気がする」
「このままじゃ良くないってこと?」
「何も変えなかったら、またいつか同じことが起こると思う。それは、俺には変えられないことだと思う」
「ま、俺もお母さんか瑠衣のどちらかか両方か…どういう形がいいのかはわからないけど、おばあちゃんの家でしばらく過ごすような時間があってもいいと思う」
18歳と40後半の母娘というには見てて辛くなるようなやり取りはあった。それは家庭の状況がそうさせたのか、環境がそうさせたのかはわからない。わからないから、変えるしかないというのは自明だった。
「俺が思うのは、…例えばラッパーが「ここが俺たちの地元」とか歌ったりするじゃん。それはその人がその町で育ったってし自然と感じてるから出てくる言葉だと思う。そういうこの町で生まれ育った、っていう感覚は、自分から得ようとして得られるものではなくて。そして、それは人として大事にしなくちゃいけない感覚だと思う。そういった自分では選べないようなことが人間の根幹の部分だと思う。お前も、ここらへんで育った、っていう感覚はあるだろ?」
この段階では、私はあまり整理がついていなかった。東京という区域は、出身で名乗るには広大すぎるとは思っていたが、住んでいる町に対する愛着は20年分存在した。
「俺もここが地元だと思ってる。そういったことの中に、家族っていうものも当然入ってると俺は思ってる。だから、どこまでいっても助け合うのは当たり前のことだと思ってる。…たぶん、お前がそうは思ってないとまでは言わないけれど、そういう感じじゃないことは何となくわかってる」
やはり兄は優しい人なのか、何かに責任を感じているのか。それは、どちらかを選んだり、どちらもと決めつけるのは違うものだとは分かった。しかし、一方で、私にはそこまで思い入れることはできなくなっていた。高校の時に兄のことで母と話し合った結果、私は母を親としてみるのは無理だと思ってしまった。私は、子供が10年と続けてきた野球をやめ、別の何かを始めるときに「どの道に進んでも、応援してる」という言葉があってほしかった。そういった家族になるために、離婚という選択をしたのだと思っていた。家族全員が食卓に並ぶことに感動して泣くことも、その翌日に怒鳴り声で起きることも、どちらも私には受け入れがたい現実だった。
「そういう理想の家族像みたいなのにはもうなれないからってこと?」
「それになれるとは思ってないし、そう期待するのももう辛いから。だから陣はすごく強いなと思う」
「別に俺は強くもないけど、誠の考えていることは分かった。話してくれてありがとう」
そうして話は終わった。この日から数えて2か月後には妹は退院した。私たちはそれから、4人での生活を続けている。妹は私立の音大に行き、兄は大学を卒業後定職に就かず、母は元気に仕事をしている。母が言うには、妹はオペラ歌手になりたいらしい。私はそれを妹の口から聞いたら「応援している」と言うだろう。ただ、なれるとは思っていないし、なっても幸せではないのだろうと思っている。