王太子と聖女
つい先月、王都郊外の離宮が消失し、王女が一人亡くなるという悲惨な事件が起きたにも関わらず、サンクトシグルブルク宮殿では今日も多くの紳士淑女が談笑に耽り、優美な庭園を散策し、高級な菓子を賞味していた。
宮廷貴族達にとって陰謀や暗殺は日常茶飯事であり、今回の一件もそれほど大きな騒ぎとはならなかったのだ。
そんな王宮の回廊を、青い洋服に身を包んだ若者が歩いている。
彼の名はレオンハルト・フォン・エーデルラント。このエーデルラント王国の王太子で、ユリウスの幼馴染だ。
やや癖のある金髪に、丸々として大きな瞳は周囲に幼い印象を与え、それだけで親近感を与える。
可憐な少女にも見えなくないその美貌は、笑顔一つで多くの貴族令嬢を虜としてしまう魅力を持つ。
しかし、本人は恋愛事にはまったくの初心で自覚が無いため、宮廷では密かに“無自覚の女たらし”と呼ばれていた。
今日も回廊を歩いているだけで、多くの女性がその笑顔に魅了し、誠実な性格から目が合うと礼儀正しく、わざわざ足を止めて挨拶をするため勘違いしてしまう貴婦人も少なくない。
そんなレオンハルトの前に、壮年の聖職者が慌てた様子で姿を現す。
「殿下! 王太子殿下!」
「……これは、エスターライヒ大司教、ご無沙汰しております」
レオンハルトは一瞬だけ嫌そうに顔を顰めつつ、すぐに気持ちを切り替えて笑顔で挨拶をする。
この人物はエスターライヒ大司教という名で、エーデルラントブルク王国の教会全ての管理・運営を統括している人物。
聖女であるシャルロッテの上司にも当たる。
王太子であるレオンハルトにも積極的に取り入ろうとするのだが、誠実な彼にとってエスターライヒの行為は不快以外の何物でもない。かと言って父親が大司教に任命したエスターライヒを無下にはできない。という事で、微妙な距離感が生まれていた。
「国王陛下は近頃、ご病気がちとの噂を小耳に挟んだのですが大事ございませんか? 私めにできる事があれば何なりとお申し付け下さい。いつでも喜んで力になりますぞ」
「お心遣い、痛み入ります。ですがご心配なく。ただの風邪ですので、直に良くなるかと」
そうは言うがレオンハルト自身は、父親であるふりフリードリヒ王とはもう一ヶ月近く顔を合わせておらず、父に関する話は全て侍従長のヴランゲル子爵から聞いたものだった。
エーデルラントブルク王室では、実の親子で同じ宮殿に住んでいてもそう気軽に顔を合わせるもままならない。
「それは何より。しかし何かあっては事です。くれぐれもご用心を。このエスターライヒはいつでも陛下と殿下の御力となります」
エスターライヒが真に心配しているのは、国王の安否ではなく、国王からの庇護の有無。国王という後ろ盾を失う事を恐れる一方、いざという時に備えてレオンハルトに取り入ろうとしているのだ。
「ありがとうございます。それでは失礼します」
レオンハルトは一礼して早々とその場を立ち去る。
エスターライヒは聖職者でありながら財力にものを言わせた俗物ではあるが、一概に彼一人を責める事もレオンハルトにはできない。
本来、高い信仰心と弛まぬ努力で身を立てるはずの聖職者だが、実際に出世できるのは貴族や財力の有る商家ばかり。
そして教会が定める厳しい戒律をしっかりと守っている聖職者は年々減っており、禁欲とは正反対の暮らしをしている者が増えているという堕落ぶりから教会の信用は失われつつある。
巷では宗教改革を唱える者も現れ、社会問題と化す恐れすらあった。
こんな混沌とした場が宮廷というもの。いずれ自分がその宮廷のトップに立つんだと思うと、今から胃が痛い。いっそ誰か代わってくれないかな。そんな思いがレオンハルトの脳裏を駆け巡る。
「あら。レオンじゃないの」
聞き慣れた女性の声がレオンハルトの耳を撫でる。
その途端、レオンハルトの表情は一気に明るいものとなった。
彼の前に姿を現したのは、白い修道女の服を纏った少女だった。腰まで真っ直ぐ伸びる赤髪に蒼い瞳、特別大きいというわけではないがバランスが良く形の整った胸は男性の視線をそそる。
彼女の名は、シャルロッテ・フォン・テンペルハイム。エーデルラントブルク王国の聖女を務めている。
“聖女”というのは、聖魔法の達人で王室を守る最後の番人。
その起源は千年以上の昔、大陸全土を支配した古代エルトリア帝国初代皇帝が最も愛し、皇帝を公私ともに支え続けた女性とされている。
聖女の定義も曖昧で、少なくともエーデルラントブルク王国では聖魔法の達人である女性が絶対条件となるが、国によっては王女であれば誰でも就任できたり、国王の王妃候補が務めるパターンもある。
「やあ、ロッテ。久しぶりだね。しばらくは修道院に籠るって聞いてたけど、無事に終わったみたいで何よりだよ」
「無事じゃないわよ! 一週間。一週間も小さな小部屋に閉じ籠ったまま断食して祈りを捧げ続けたのよ。もう本当に死んじゃうかと思ったわ」
シャルロッテはこのご時世では珍しい敬虔で禁欲的な修道女だった。
どんな過酷な苦行にも屈せずひたすら耐えるその姿は、多くの人々の尊敬を集めている。
それに聖魔法の使い手としての実力も伴っているのだから、彼女が聖女となっても異議を唱える者など一人もいない。
しかし、数ある苦行の中でもシャルロッテが幾度も心が折れそうになったものが断食である。
元々食いしん坊のシャルロッテは断食だけはどうしても苦痛に思えて仕方がなかった。
「せ、聖女様も大変だね。本当に頭が下がるよ」
「まあ、レオンハルトは国王様。ユリウスは宰相。それなのに私が聖女のなり損ないになってなったら、レオンとユリウスに合わせる顔がないしね」
「ふふ。ならいっそ王妃になるって選択肢もあるんじゃない?」
「え?」
真面目なレオンハルトが言うとは思わなかった部類の冗談に、シャルロッテは一瞬理解が遅れてしまう。
僅かな沈黙が二人の間を漂い、次第にレオンハルトは自分の言った言葉を思い返す内に恥ずかしさが込み上げてきて顔を真っ赤にした。
「ご、ごめん! 変な事を言った! 気を悪くしたのなら謝るよ! ロッテは昔からずっと聖女になるために頑張ってきたんだもんね!」
聖職者は独身が当たり前。
戒律が緩んだ今の時代では、それが守られない例も多々あるが、聖女だけは例外だ。聖女はその命を王室と王国に捧げる証として独身の誓約を立てる。もしも密通が発覚した場合は問答無用で死刑となる。ただし、聖女を引退した場合はその限りではない。
これは聖女の有り方が異なろうとも、全国共通の原則である。
そうした事情もあってレオンハルトは、これまで血の滲むような努力を重ねて聖女となったシャルロッテに聖女を辞めるよう勧めたように捉えられて、彼女が気を悪くしたのではないか、という不安が脳裏を過る。
「だ、大丈夫よ。ただの冗談でそんな真剣に弁明しないでよ。まるで本気みたいじゃないの」
「う、うん。ごめん」
素直に謝るレオンハルトを見て、シャルロッテはクスリと笑う。
「まったく。王太子殿下ともあろう御方が、そう簡単に謝るものじゃないわ。そういうところは昔から変わらないわね」
「人間そう簡単に変われるものじゃないよ。ロッテもユリウスも昔から全然変わってないし」
「そういえばユリウスは? 今日はまだ姿を見てないけど」
「……アウグスタ様の件があってから、ユリウスはあまり王宮に顔を出さなくなっちゃったんだ」
「……そう。ユリウス、口にこそしなかったけど、本当にアウグスタ姫殿下が好きだったからね」
「僕だってアウグスタ様は腹違いとはいえ姉上としてとても尊敬していたよ。できればユリウスを邸から引っ張り出しに行きたかったんだけど、あの事件でオーベルク伯から王族は全員、安全のために王宮から出ないようにってキツく言われててね」
「まあ、そうなるでしょうね。ねえレオン、明日、こっそりユリウスの邸に行ってみない? 昔はよくやったでしょ。邸に閉じ籠ってばかりじゃ気持ちが晴れないだろうから、外へ引っ張り出しに行くのよ!」
「いいね。うん! そうしようか!」




