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萩の一夜  作者: 坂本梧朗
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第1話


 照義は旅装を整えて、カメラを構える久美子の前に立った。二回目の「鈍行の旅」だ。最初の時もこうして出で立ちの姿を写真に撮った。写真には日付が入る。自分の人生の一こまを記録しておこうという意識と遊び心が半々の行為だ。         

「鈍行の旅」とは照義が付けた名称で、各駅停車の普通列車だけを乗り継いでする旅のことだ。最初の旅はふだん出勤時に乗る電車をスタートとして、鹿児島本線を下った。出勤の時と同じ電車に、しかし重苦しい気分を呼び起こす職場を目指してではなく、あてどもない気楽な旅として乗る。その気分の落差を味わいたいというのがその旅を思い立った動機だった。出勤の電車の中で、いつもの駅で降りずに、電車とともにどこまでも行ってみたらどうだろうと思うことが照義には何度かあり、それを実行してみたのだ。電車がホームに入ってきた時から、乗り換え、そしていつもの降車駅を通過するまで、展開する情景に合わせて、照義は出勤時との気持の違いを味わおうと努めた。この情景はいつもはこんな気分で眺めているのだが、と思いながら今の気持と比較するのだ。確かに解放感は覚えたが、出勤の電車の中で想像していたほどではなかった。それでも職場に向うためにいつも降りる駅のホームが後ろに流れ過ぎた時、照義はざまぁみろ、と感じ、ホームの上を歩く人にいつもの自分の姿を重ねて、〈お疲れですね〉と同情の言葉をかけたのだった。

「少し笑ったら」

 と久美子が言った。

「少しも楽しそうじゃないわ」

 そうだろう、と照義は思った。自分でも弾む気分はないし、それをまた隠したくもなかった。むしろ彼は自分のそんな状態を滑稽さに転化しようとして、殊更気の抜けた表情を作っていた。

「いいんだよ。これで」

 照義は苦笑いを浮かべて答えた。

「変な人」

 照義の意図したユーモアが通じたのか、久美子は少し笑ってシャッターを切った。フラッシュが光った。

 春休みが終ろうとしていた。休みの間に照義は気晴らしに久美子と旅行をするつもりだった。学校が休みに入っている彼は比較的自由に時間がとれたのだが、小さな手作り品の店を経営している久美子はなかなか日が決まらず、ずるずると休みも終りに近くなってしまった。その頃になって旅行に同意していた久美子が休めないと言い出した。休みの間に必ず旅行をすると決めていた照義は、久美子の違約をひとしきり詰った後、仕方なく二度目の「鈍行の旅」に出ることにしたのだ。

 今回は山陽本線を上り、小郡で山口線に乗り換え、湯田温泉で下車して、詩人の中原中也の記念館を訪ねるという計画を立てた。       

 照義はアパートの部屋を出て、階段を降り、駐車場から歩道に出る所で振り返った。戸口に半身を出している久美子が手を振った。照義も手を振って応えた。こういう時にはよく浮かぶ思いだが、無事に帰ってこれるかな、とふと彼は思った。

 日豊本線の駅から電車に乗り込み、小倉で山陽本線に乗り換える。照義は小倉駅で朝食の駅弁を買った。駅弁を食べることが「鈍行の旅」の楽しみの一つで、そのために彼は朝食を食べずに出てきていた。楽しみはゆっくりと味わおうという気持で、小郡行きの列車が動き始めるのを待って食べ始めたのだが、下関駅に着く頃には食べ終っていた。食欲が満たされると、旅には相応しくない心塞ぐ思いと照義は向き合わなければならなかった。

 照義の心を重くしているのは間もなく始まる三学年への不安だった。不安は一人の生徒の存在を核としていた。その生徒、岩谷俊二は今年照義が受け持った生徒だった。この生徒の指導について一年間照義は頭を悩ませてきたのだ。


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