贋物の眼
「ねえ。これ見える?」と言いながらゆうくんに雑誌を見せる。細かい線で書かれた訳がわからない絵、立体視の。
こういうのを見てると視力がよくなるとか記事が書いてある。
「うん。イルカが…3匹跳ねてる」
「えー、どうしてそんなにすぐ見えるの? あたしなんかずっとやってても見えないのに」
「左右の視力がだいぶ違うせいかな。ちょっと焦点をずらしてればいいんだ。ぼやって見てれば…」
頑張ってると知らず知らずのうちにしかめ面になっているみたいだ。
「変な目つきしてる?」
「あー、そういうことじゃないんだ。進化論上、眼の発生は難問だっていうのを本で読んだのを思い出したんだ。突然変異と自然淘汰では、人間の眼は説明できない。複雑な仕組みがぜんぶ揃って初めて用をなすから。レンガを放り投げていたって家ができたりはしないでしょ? たとえ何万年続けても」
そういうものかって思う。
「蛸とか、烏賊の目も同じカメラ眼なんだ。貝とかクリオネの仲間なのにかけ離れて高度な眼を持っている。不思議だよ」
「頭に足が生えてるからじゃない?」
「あはは、一瞬そうかなって思ったけど、何の説明にもなってないよ。…でも、頭に足があるって思ってたら食べられないよね」
「ユダヤ人みたいに? なぜ蛸とか食べないんですか? あなたたちが犬とか食べないのと同じです。気持ち悪いから? はい、何が気持ち悪いかを決めるのが宗教なんですって」
「あ、見えた!…すごいね。へー、へー」
「その感覚はわかるよ」
「なんだろ。この感じって」
現実の立体世界とも違う、もちろん平面とも違う。目が騙されているだけだと思うけど、おもちゃの国みたいに入って行きたくなる。
「別にこんな絵じゃなくても、慣れると同じ写真2枚でもできるよ」
「そうなんだ、すごいね。でも、何だかよくわかんない絵からふいに見えるのって…ここに来るちょっと前の気分みたい」
「ああ、それもよくわかるよ。世界の真理を見つけちゃうと、ここに来ちゃうんだよね。あと、自分が神だってわかっちゃった人も5人はいるよ」
あたしはしばらく考え込む。ゆうくんもまーちゃんも同じテーブルで黙っている。みんな平気だけど、大抵の人はそれに耐えられずにすぐに世間話始めたりする。沈黙と夜を嫌うのが外の世界の通貨なんだろう。たとえそれが紙にすぎないってわかっていても、贋物なんだってわかっていても。
紙幣を燃やしたことがある? どんなにおいがするか、一生にいっぺんくらい試してみたらどう?
「目は開いているけれど、夢を見てるようにも見える」
それは自分のことのような、まーちゃんのことのような。
「ああ、それって比喩でもないし、めずらしいことでもないよ。周りの人や風景が夢の素材になっていく。夢を見ている自分と夢を作っている自分とがオウム貝のように巻き上がって。暖かくて曖昧なお湯が底から湧き出している。…」
『歴史は才能しか愛さない』泡の一つが言う。太古の海には歴史なんかない。何かここに来る前にその黒々とした言葉を聞いた気がする。つられるように立って、かたかたと島の歩哨のように歩いて行く。薬の副作用でうまく歩けなくなっている。
ある時、あたしは死んだんだ。ここは古ぼけた死後の世界なんだ。そう考えればいろんなことがとてもうまく説明できる。とても安心できる。
だからと言って、この世界が前のとどう違うのだろう? でも、そんなことを気にすることはない。記憶違いなんてよくあることだ。
そういうことをぽつぽつ話してると、ゆうくんが言う。
「誰でも見慣れた鏡の中の自分の顔にどうしようもない違和感を持つことがあるだろう?」
「うん、そういう時ってぶーんと冷蔵庫の音が聞こえるんだよね」
「右耳後ろ30センチくらいのところから、『あなたは死んだんですよ』ってささやいてあげたい。誰かに押し付けられた贋物の記憶を燃やしてあげたい」
「ああ、そうか。体がすうっと軽くなりそう」
「ママたちが『親切ね』って褒めてくれるよ」
でも、主治医は『あなたは死んで別の世界にいるって思ってませんか?』なんて訊かない。どんなところでも日常というものがあるんだから。蜘蛛がどんな場合でも巣を張るように。頼まれもしないのに他人の頭の中身を覗こうなんて、よけいなことだってわかっただけで、あたしは利口になった。思いやりって、蛸がわずかな隙間から湿った足を忍び込ませて絡めるのに似ている。左右の視力の差が広がったのは、その代償なんだろう。