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すべてがデータになる前に  作者: 夢のもつれ
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外に向かって閉じた街

 あたしは空想の街を造る。それはきっとトレドにどこか似ているはずだ。狂気の雲が狂人の街を覆っている。エル・グレコって人の描く人物は、みんな狂熱に魘されている。ここの人たちも住まわせてあげよう、この橋のそばに、この城壁のそばに。熱病の人たちを冷ましてあげるために、深い淵にいる人たちを狂熱で引き上げてもらうために。

 ゆうくんによると、あたしは雲の下を飛んでいるとまーちゃんが言っているそうだ。それはあたしにも直接的に伝わる。


「ママたちによると夜はあきれるくらいぐっすり眠っているらしくて、朝起きると何だか損をしたような顔をしているんだって」

「…あたしのこと?」

「例えばね。…時々、島々を行き交う船のように先生やナースや他の患者に立て続けに訴えているけれど(なぜケータイが持ち込めないのかとか、カセットならよくてなぜCDはダメなのかとか、そんなことらしい)、今はノートにゆっくりと書いている」

「うん、書いてる。恥ずかしいことも含めて」

「舫われたように髪を揺らしながら。グラフ理論って言ってたから(そう、あたしには聞こえるんだ、聴こうとさえすれば)、折れ線グラフとか帯グラフのことかと思ったけど、浮き輪に網を掛けたような絵だったかな」

「…忘れちゃった。ほとんどのことは」

「楽しそうにしてればそれでいいんじゃない?」


「でも、まーちゃんをいじめる奴がいる。退院しても家に居場所がない、仕事がない、みんなそうなのに」

「少ししか開かない窓から指でひらひらしてるのを邪魔するんだよね」

「『目障りなんだよ』それはおまえだ。『朝から晩まで何してやがる』おまえはどうなんだ?」

「ひどいよね…」

「まーちゃんが泣き叫ぶ。ナースが来る、だるそうに。まーちゃんを抱えて引き離す」

「あたしも聞いてしまった。『こんな奴生かしといたって何にもならないだろう』あの夜は怖くて眠れなかった」

「ぼくは甲高い声で笑ったんだ。ここにふさわしい身振りで。ナースがきつい目で睨んできた。『だいじょうぶだよ、そいつをスケジュールどおり娑婆に出すのを邪魔する気はないから』」

「ナースは、たぶん人間は二つに分かれるんだと思う。まーちゃんがわかるか、わからないか」

 あたしは少し得意になって言う。


 …あたしは頭に血がのぼってしまった。廊下を歩いて冷まさないと、よくない。右の方へ行く、冴えない蛍光灯の列の向こうに『独房』の入り口が見える。と言ってもただのドアだけど、そこをくるっとまた右に曲がると、蛇口が5つ並んでいる。そこは床が濡れていたりして嫌いだ。


 港はしんとしている。鱗とにおいだけが残っていて、もう死んだような魚も上がって来ない。

「誰か呼んだ?」

 ブイが音もなくうなずく。波の音も死んでいる。畳の部屋の向こうでは、布団をかぶって、深夜に眠れないとナースにいつも訴える奴らが寝ている。

 突き当たって回れ右をしたら、主治医がふらふらと歩いてくる。めったに目を合わせることはないけれど、おじぎをしたらかすかに首を揺らす。白衣を着てなければ患者って感じだけど、でも患者たちは何とか関心を持ってもらおうとする。

 あたしはこの人に何回、自分の家族構成を説明したか知れない。単に忘れているだけなのか、あたしの話振りや態度を見ているのか。そんなことを訊いても仕方がない。話が逸らされるだけだし、鴉の奴が鳴くからね。奴らはQの音をいろいろに使う。厚い窓ガラスを通して伝えてくる。


 デイルームに戻って、今度は左側の方へ行く。給食のにおいってどこか吐き気を催させる。口だけで息をすると、変な顔になってしまう。こっちの部屋にも寝ているのがいる。仰向けで棒のように体を強張らせて、手を組み合わせて、埋葬を待ってるみたいだ。この病棟では幸せそうに寝てるのはいない。


 介助が要る患者が先に入浴している。服を脱がせるナース、洗うナース、服を着せるナース、てんてこ舞いだけど、自分が相手してる患者しか見えてないのもいれば、流れを俯瞰して脱衣場から「そろそろ湯船から出なさい」と声を掛けるナースもいる。あたしがそういうふうに見てるとあんまりいい気はしないみたいだけど。…

 もうすぐ他の患者たちが浴室の前に並ぶだろう。食事のときも10分も前から並ぶのがいる。やることがないから、みんなスケジュールをよく覚えてて、先回りして並ぶ。忙しすぎてここに来た人も多いのに、暇なのは耐えられないみたい。

 あたしは並ばない。垢が浮いた湯船も、狭い席に話もしないような人の隣でご飯を食べるのもとっくに慣れた。そういうことを気にしない。急いで済ませてもその先には何もないんだから。


 行き止まり、行き止まり。この病棟はぜんぶそうなってる。鉄の扉の向こうは、外階段とかエレヴェータ・ホールとかにつながってたりするけど、閉じられている。散歩は回れ右の連続になる。ふつうの病棟とは違う。すたすたスリッパのまま歩いて出ることはできない。出て行っても困るのは病院よりも自分たちだ。外ではあたしらは何者でもないから。


「まーちゃんとナースのことでまた思い出したことがあるんだ」

「うん」

 あたしは、いつも朝起きるとデイルームに連れて来られて、消灯近くまでいるまーちゃんのそばでノートを広げながらゆうくんの話を聴く。

「ずいぶん前のことだけど、キャップを少し傾けてかぶったナースが見習いのナースに説明してるのが聞こえたんだ。『本当はここにいるのは違うのよ。あの子が入るのにふさわしい施設は別にあるんだけど、子どものときからいるものだから…』言い訳のような、誰かに向かって抗議するような、でも自分が面倒を見たいという気持ちがこもってた」

 ナースが親身になりすぎるのはよくないのかなと思った。


 その夜にあたしは夢を見た。その夢は、朝目が覚めたときは断片しか思い出せなかった。ただその夢を見たことで、まーちゃんがこの病棟にとっても、あたしにとっても大事な人だとわかった。それは『疑問の余地がない』ってやつだった。

 …まーちゃんはあたしの街に住んでくれるだろうか。まーちゃんはよくご飯とか、トイレットペーパーを投げ捨てる。あたしの街をそんなふうにしたりしないだろうか。

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