静かで青い朝
「わぉ。とってもインプレッシヴな光景ね」と小さな喚声を挙げて、あたしはナースに連れられて中に入った。…
ひらひらひら、まーちゃんが指を回すと、いつもの廊下のほの暗い冷たさ。ちょうちょなんかいないって、ゆうくんは言いたくても言えない。
陽が射してきている。見る間に大きな樹がかぶさってくる。ジャージを変てこなふうに着たあたし。甘えたような匂いが海峡から海峡へさざめき合い、伝わる。違うの。海なんか要らない。ただ眠いだけ。…
ここに来て何日、何週間が経つのだろうか。
消灯後の数数えを、
「出してくれよぉ」とか、
「なんで独房なんかにあたいが居るんだよぉ」とか叫んで邪魔してくるのにも慣れてきた。ほら、ナースだって目だけで笑っているでしょう?
「また、若い女だね」
そう言われたっけ。
「いくら言っても、文書を提出しても性懲りもなく出てくる朝のジャムみたい」
「でもさ、手首はきれいだよ。だからぼくは『女』って呼んであげる。まーちゃんみたいにいい子にしててくれたら、もっといい位をあげよう。…」
ゆうくんはジャムをいっぱいちゅうちゅうしたいんじゃない。朝から手が汚れるのが嫌なだけなんだ。
「ナース以外の職員はみんなぼくとリンクがあるから、知ってるよ。控えめに言っても、5人のママはみんなね。湿った路地と赤錆びた屋根を重ねたふくらはぎを見せたりしないから、ママたちは好きなんだ」
あたしは穏やかな目で彼の話を聴いている。
集まって来た。でも、まだ離れてる。礼儀正しいから。テレビとは違う。
「子熊や子猫ならいいのにね。くるまって自分の匂いの中に眠れる」
まーちゃんはそう言いたいような気がする。
あたしはカレンダーをなぞっている。きっと今日がどんな一日かスキャンしてるんだろう。だって、未生の彼らが教えてくれたから。日にちには印しも色もついていないって。…あたしは後ろ目でみんなをチェックしてる。
無内容なカンファレンスを白く汚れたガラスの向こうでしている。
「ここのナースってほんとにバカよね」
「下らない奴らだ。ロッカールームなら聞こえないって思ってるんだもんね」
「この前もさ『手足を抑えられてるっていうのに、よくあんなに食べれるわね』とか、『眠剤の注射のとき、お尻はダメよって言うのよ』とか声高にひそひそ話をしてるの」
「あは、それで予め聞こえた言葉が合唱されるんだろ? 『あんなかわいい顔してねー』って、少し音程外してるよ」
お掃除が終わって、午前中のこの時間って好き。宇宙が静かで、青い光に満ちて、外では知らなかった舌触り。ゆうくんが隣にぺたんと座る。
「ぼくはいつここに来たのか、覚えていない。昨日じゃないし、まーちゃんみたいにちっちゃな子どものときからでもないんだけど」
あたしも子どもの頃のことを思い出して呟く。
「霧がしゃがんでいくのがわかるくらい高い高い砂山を登るの。鼻の奥につんつん土ぼこりが入るくらい一生懸命に。みんなあそこに行くの。月が真上に見える」
「うん。ぼくにも見えそうだ。ママたちも褒めてくれるよ。違う時空のことを考えられるなんて、すごいことだよ」
「ああ、そう言えばまともなナースもいたよ。キャップを少し傾けてかぶって、だから男と逃げてしまった。夜中でも話をしてくれたのにね。今の連中は、規則ですからって言うだろ? 規則ってこの世でいちばん苦い食べ物みたい。先生に訊いてくださいって、言うだろ? 先生は彼女たちの守護聖人なんだ」
今のナースは不衛生とかでキャップは被らないけど、ゆうくんのナースは被ってるのだろう。守護聖人に仕える修道女みたいにヴェールの方がいいだろうに。
「お変わりありませんか?」
「はい。だいじょうぶです。ですから…外出の…」
もう先生は廊下を二つ曲がっている。明日まで声をかけてくれない。『もう少し様子を見ましょう』、『あなた次第ですよ』…話を逸らすのがコツなんだね。風になびくすすきみたいな直立不動で、声を張り上げたってさ、迷惑だよ。
出れる人はちゃんと予約を取って、診察室できちんと話をする。実務的ですって見せられないと、ダメ。何日でも待つことができないようじゃまた戻ってくるだけだから。
「いやあ、ここがやっぱり気楽だから」
そういう人は2週間もすると、また直立不動しちゃう。
「女は周りを気にしてる、でも、そんな様子は見せたくない。緊張してる、無理してる。ナースにだけ話しかけようとする。眠くなるよ、疲れちゃって」
あたしは声の主を探す。
「服の中まで沁み透るね、月虹は。ここではよく見れるんだ、17分ずつ昼間が短いからかな。でも、お昼の時間は一緒だよ。あと73分あるね。……ぼくは素数が大好きなんだ。独りでいるのが好きだから」