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すべてがデータになる前に  作者: 夢のもつれ
6/12

あたしの肩の上の…

 たけるの病院にまた行った。ちりちりと警告音は響いていた。

 でも、あたしは浮かれたような気分で、肩に乗っている女の子に、

「だいじょうぶだよ。行こうよ」と言った。

 彼女はやめたほうがいいとささやいた。あたしがどう反応するかを測っていたと思う。淵の深さを測るように。


 たけるは変わっていた。小さくなって、干からびて、すとんとベッドに座っていた。

 骨張った顔に埋め込まれたような目がきょときょとと動いていた。別に来たことを責めたりもしなければ、喜んでいる様子でもなかった。

 自分から唇の端に泡を溜めながらやや早口で喋るのを、あたしは頷いたり、彼の手(あたしの体の隅々まで知っていたはずの)を見ていたりした。癌は、外見以上に彼の中身を無機化してしまっていると思いながら。


「なあ、神様っているのかな?」

 世間話の続きのように言う。内側を少し覗き込むような目をしていると認識しながら、彼が今抱えている病気の話なの? それとも……とあたしは思った。

「いるとか、あるとか言ってもこのコップがあるとかいうのとは違う。子どもにサンタクロースは君の心の中にいるんだよって言うのと同じなんだろう。でも、その子にじゃあ心ってなあにって訊かれたらどうする?」

 病にある者、死の床にある者の前のめりの熱と特権を振りかざして、たけるは一方的にしゃべり続ける。


「心は……ここにあると、もう俺たちは胸に手を当てて、素朴に敬虔に答えることはできない。脳の中のシナプス間の信号伝達物質の行き交いとか何とか言うんだろう。暖かい鼓動なんかより、パソコンのCPUやメモリの間のデータのやり取りのようなものだ、いやそれと何も違っちゃいないと納得する。それはそれでいいんだ」


 どこかで鴉が鳴くのが聞こえる。遠く、近く。


「……じゃあ、電源切っちゃうと心はなくなるの? やなガキだね、どうも。まあ、そうだなって小鼻を掻いて言うしかない。電源が切れれば心はなくなる。サンタクロースもなくなる。俺もなくなる。だから電源を切らないでくれって叫んでるんだ、消灯後の病室で、心の中で。……こんなところだろうか? 神、心、脳、パソコン、データ……それが俺たちの標準的理解ってやつか?」


 光。…あれはどこだったか、大聖堂が修復工事中で、足場を上ることができて、内壁のフレスコ画を見ながら上へ、上へと、途中まではエレヴェータで、そこから上はパイプで組み上げた少し怖いような階段をたどりながら上がっていった。


 ……お坊さんだか、聖人だかのずっと上の空に舞うマリアやキリストよりも、もっと高いドームの本当のてっぺんには、金色の光と御使いの鳩が描かれていた。ありふれた表象、心の真実。

 

 でも、今は女の子は微笑んでいる。まるで葬儀を終えた喪主のように、声も立てずに。


『ここから作ったんだよな』とあの時、建築家の男は言った。


『構想はそうなんだ。土台から造るのは石工の仕事さ。上から、神という出発点からすべてが流出し、この教会はできたんだ』


『ユークリッド幾何学みたいなものね』


 あたしは意識してかわいらしく応えたのを思い出す。


「…だが、そんな理解の仕方で何かわかったのか? セザンヌの絵を見て、やあこれは油絵具で描かれてますね、キャンバスはこれこれ、こういうものですね、以上。なんて言ってるのと同じじゃないか? セザンヌの絵の本質、放射する力、まぎれもなく彼がそこにいるっていう肝心要のところはどうなったんだ? 何も説明されていないじゃないか。画材や何やかやの分析だけじゃ何千年経ったって、彼の神業は説明できない。だとしたら、さっきみたいな説明で神が説明できるって思うのは、よほどのバカか、怠け者なんじゃないのか? 心の中にあって、心を超えたもの……」


 言葉を急に切って、窓の方をじっと見ているたけるを見て、電源が切れちゃうという不吉な連想が浮かんだ。あわててキャンセル・ボタンをクリックするみたいに言う。


「セザンヌが好きだったの?」


「うん。言ったことはないかもな。……ああ、あの旅行は楽しかったな。ちっちゃな街でおまえが石造りの美術館で海と交わっている間、俺はずっと山を見ていたんだ。セザンヌが晩年に何枚も描いたのとそっくりな山を。……たった今盛り上がってきたような視覚の中で、見ちゃったな、ここまで来ちゃったんだなって、俺の意識はささやいていたんだ。湿り気を帯びた風がなぶるようにシャツの中に入って」


 沈黙が訪れた。あたしは恥じていた。顔が熱くなるくらい。自分の愚かしさに嫌悪感を覚えている。それには気づいていないように彼は静かに言う。


「セザンヌはすごいぞ。俺の作ったビルなんか束になってかかったって、びくともしやしない。でも、それがわかることは……最終的にはうれしいことなんだ」


 痛々しい? 怖ろしい? この元の恋人に何らかの感情を抱く? 彼自身がそういうつながりを断ち切っていることが明らかなのに? ……


 しばらくして、鴉がまた鳴いたような気がして、あたしはつぶやく。病床に言葉を置いておくように。


「じゃあ、あたし帰るね」


「ほい。またおいで」


 その言い方はあたしを傷つける。深く、長く。前にお見舞いに来たとき、まだこちら側にいた彼が言ったように再び来るべきではなかった。


 エレヴェータの前まで来て、女の子がささやく。

「気をつけて」


「何に?」


「こういうところってやっぱり人がいっぱい死ぬでしょ?」


「ああ、そういうもんなんだ」


「うん。帰る時がね。気をとられたり、振り向いちゃだめ」


 なかなか来ない階数を示すランプを見ていると、誰もいないのにざわざわと音が聞こえる。何かいる。でも、そっちに目を遣ることができない。首が強張る。助けて。女の子は応えてくれない。


 深夜に髪の毛を洗っている時に襲われるようなどうしようもない恐怖感。合理的になんか考えられない。何かにすがりたい。神様、仏様? そんな今更だよね。さっきの話にも手がかりなんてない。


 ……あたしは必死でセックスのことを考える。確かなものは性の欲望と快感だけ。あたしたちは、もうとっくにそうなってしまっている。でも、いくら淫らなことを考えても潮は満ちてこない。暗いところへ引きずり込まれそうになりながら、エレヴェータに乗る。灰色っぽい人の中で、顔を上げることもできず、体を硬くしている。


 がたんとゴンドラが大きく揺れて止まった。そこがちゃんとしたグランドフロアであることを祈りながら、ゆっくりとドアの開くのを見つめる。

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