眠いのは、春だけじゃなく~ニースと同じ緯度の町
ここのところ始終眠くて仕方がない。電車の中で座れば眠り込んで乗り過ごす。あるいは立ったまま眠ってしまい吊革を持ってがくりとなる。仕事中の待ち時間でも、どうかすると打ち合わせのときでも意識が途切れてしまう。
「お疲れだね」とからかわれてしまうが、ちょっと変に思われ始めているような気もする。
夜は夜で眠れない。昼間ぼおっとしていてできないことをやり始めると、目も頭も冴えてやめられない。短夜はあっという間に明けて、ようやくベッドにもぐり込む。どうしたのだろう。たけるの見舞いに行って以来、どこか変わってしまったような気がする。
例えばこういうことだ。六本木をふらふら歩いていると、「今、時間ある?」ってナンパされる。
「時間はモノじゃないから、あるとか、ないとか言うのは変じゃない?」
「それは認識論的に感覚への寄りかかりがあるからさ。感覚的にモノのイメージって強固な基盤を持つから、それを時間に投射して、あるとかないとかっていう言い方になるんだよ。つまりさ、ぼくとお茶する気持ちがあるとか、ないとかと言うのと同じだよ」
ナンパ君はにこやかに言い返す。
「うん、そうかもね。でも、気持ちの方はお茶してもいいなっていう心的状態だという言い換えはできても、残念ね、時間がないのっていう言明は、君の論理に従うとどういう事態になるの?」
「その命題を検討するのには、十分な時間がないと無理だから、心的状態を優先しようよ」
…もちろん目の前でコーヒーを飲んでいるナンパ君がこんなことを言うはずはない。『ねね、彼氏いるのー?』とか、『今日は何しに来たのー?』とか、たぶんそんなところをあたしが適当に変換して、哲学論争ちっくに聞いているだけ。それだけ意識の清明は衰えているのかもしれない。
向こうにしたって、ぼんやりした女の子がぶつぶつ変なことを言っても、名うてのナンパ術は委細かまわず、まっしぐらに突き進む。かくしてコミュニケーションの不在は、悲劇でも解決すべき問題でもなく、今日の青空のようなすがすがしさを遍くもたらすものなのだ。
オープンカフェで、ああっと大きく伸びをする。ちょっと血流の良くなった頭は、嫌なことを思い出す。仕事に行かなくちゃ。いじわる。
「Time is up! 浮いた時間がなくなったの。……ごちそうさま。じゃあ、またね」
さっさと歩いて行く。何事か喚いているけれど、だめよ。二千円でも三千円でもテーブルに放り出して、追いかけてくれなきゃ。いい加減な考えで、ありきたりにしか行動できない連中は、使い捨てられるだけ。
地の底の底みたいな大江戸線のホームまで行くと、線路の向こうの「六本木」の文字がシンメトリーだった。あたしもあんなふうに折り返せばぴったり重なるのかな、それともどこかずれてしまうところがあるのかな。芋虫みたいな電車を待ちながら考える。…
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うーん。何か違う、もっと気持ちいい。もっと怖い。……あたしの右肩後ろ三十センチくらいのところにひらひらしたとても小さな女の子がいて、あたしとおしゃべりする。
「何か醜い女しか乗ってないよね」
「つまんないことしか考えてないからじゃないの? あはは」
「笑っちゃだめだよ、変に思われるからね」
「うんうん。でもすごくせいせいした気分なんだ。ここんとこ落ち込んでたんだけど」
「どうして?」
「さあ、忘れちゃった。どうでもいいこと、打ったらもう忘れちゃうメールみたいな。何だかちょっとだけ高いところから見えるの。すべてが今は」
その子とあたしはずっとおしゃべりをしている。車内が飽きたら、外を歩く。黙っているけれど、とっても晴れやかな顔をして、何時間だって歩ける。仕事の予定があったのに忘れてしまうくらい。
事務所からお怒りの電話が掛かっても、口からでまかせの言い訳をする。
「遠別にいる5歳の姪が死んでしまって、かわいそうで、会いに行けないのがよけいに悲しくて、一晩中泣いて目が腫れてしまったんです」
なんて言うと、相手は絶句している気配がある。
「そこに行くのは、エクサンプロヴァンスに行くより遠いの」
「何だって?」
返事をしようとする前に金属音が2回鳴って、切れた。……警告ね。これは。
「何の?」
「遠くであたしとつながっているものからの」
「装いせよって?」
「うん、そんなところ」
でも、あたしは前に行くのをやめなかった。女の子が来てから、あたしは眠れなくなった。眠いと言えば眠いのかもしれないけれど、頭が冴えわたっていくらでも起きていられる。真夜中まで話をして、身体中の感覚がよそものみたいになって、夜が明けるとヴェランダに出る。
すると鴉がさあっと飛んできて、手すりに止まる。最初はびっくりしたけれど、いつも同じ、少し幼い感じの鴉がじっとあたしの目を見ているのがわかって、納得するものがあった。そういうことだったのね、それが最近の口癖だ。鴉があたしの頭に言葉を伝えても、そう思う。
『東京にはいっぱい人がいて、こんな街なんだよなって思ってるんだろうけど、ぼくらもいっぱいいて、ぜんぜん違ったふうに見てるんだよ。高いビルとかから見てもちょっとわからないだろうね』
頭頂部の羽毛がちょんと跳ね上がった若い鴉は、羽づくろいをしながらちょっと生意気な口調で言う。
『どうして?』
『言葉って、窓ガラスよりもっと分厚いだろ? そんなのを通して見てるからだよ。……でも、ぼくらがそんなことしたら、あっという間に墜落しちゃうよ』
……そんな会話を新鮮な朝の大気の中で交わし終えると、手すりをこんとノックする。それがお互いの合図のように、3階から地上すれすれまで見せつけるように急降下してから、高く舞い上がって姿を消す。そのときだけ肩の女の子はどこかに行っている。黙っているときは見えない。
あたしは幸福だった、充分に。だのに、その後、何回も後悔するようなことになってしまった。もう一つ欲張ったわけじゃないのに。
前半が「眠いのは、春だけじゃなく」で、後半が「ニースと同じ緯度の町」です。全体を完結した後で、後半を見つけて別の部分として挿入しようと思ったんですが、いい方法が見つからないのでこのようにしました。
「ニースと…」は重要なパートで、かつほとんど手直しの必要がなかったのは意外でした。