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すべてがデータになる前に  作者: 夢のもつれ
4/12

朝はカクテルを飲まない

 たけるは入院していた。検査入院だと聞いていたが、もう二週間になる。ナースステーションで病室を聞き、名札を確かめて入ってみると四人部屋の左側の窓際のベッドだけが空いていた。ここに来るまで、予感と不安で顔が強張らないようにとばかり考えていたのが、拍子抜けして折り畳み椅子に座った。

 持参した花束をベッドテーブルに置こうとしても本が積み上がっていて、うまく置けない。窓辺のエアコンの上に置く。

 癌という単語が題名に入った本がほとんどだ。こうすれば助かる。奇跡が起こる。癌なんか怖くない。癌とうまく付き合えばいい。……にぎやかな書物の塊は癌患者をさし招く。藁をも掴もうとする者に藁を与える。出版業者なのか、読者なのか、人のさもしさを感じるのは対岸にいるあたしの傲慢なのだろう。目を背けて窓を見ても、埃っぽいガラスの向こうには倦み疲れたビルがただ立っているだけだ。


 すうっと眠くなったときに「よお」という聞き慣れた声が上の方から聞こえた。黄色い顔をしている。急に老けて痩せたと言うより、小さくなってしまったように見える。

「黄疸が出ててね。肝臓に水が溜まってて、昨日抜いたんだけど、これが痛いんだ」

 ベッドに横になりながら言う。苦しいのだろう。ほんの三か月でこんなに変わってしまうものなのか。電話では何回も話をしていたし、声に変化は感じられなかったから驚きの念が強い。検査のためというのはあたしを含めた知人への気遣いなのだろう。


「あ、これ。……花瓶とかない?」

「悪いな。その辺にあると思うけど……うちの奴が来たらやらせるからいいよ」

 ベッドサイドのキャビネットを開けて、覗き込んでいるとそう言われた。面と向かうと息苦しくなるからもう少し暗がりに目を遣る。彼はかまわず話しかける。

「おまえ、もう勉強はしないのか?」

「うん。やめたよ」

「おれがあんなこと言ったからか?」

 愛想のない中年女のような花瓶をやっと見つけて、デルフィニュームを挿しながら答える。

「違うよ。自分で才能ないってわかったから」

「才能? 努力が足りないだけじゃないのか? おまえ成績良かったじゃないか」

「…成績がちょっと良くたってだめなの」


 初めて会った頃、一緒に飲んだ仲間と渋谷で別れて、二人っきりで青山のバーに行った。そこで、現代数学の基になっている公理系数学は親不孝者だと彼は言ったのだった。昔々、その日の狩りの獲物を数えたり、土地の広さを測ったり、暦を作ったりする道具として生まれ、建築や土木やギャンブルのお蔭で大きくなったくせに、現実世界と無関係に一人で育ったような顔をする恩知らずだと言うのだ。

 あたしは、むきになって反論した。それまでの数学自体にいろんな問題があることがわかってきて、論理を再整理して体系的に完全なものにしなければいけなかったのだと。

『完全なもの? 完全になろうとして、不完全なことが明らかになったんじゃないのか?』

 彼はせせら笑った。

『あれは……そういうことじゃなくて』

『違わないさ。閉じこもって自分のことばかり気にしたり、キリのないことを考えるから、おかしなことになるんだ』

 彼の粗雑な意見に、術語を駆使して数学的論理の完全性の意味を説明したけれど、あんまり論理的じゃなかった。だって、あたし自身が取り澄ましたみたいな、肉体を持たない公理系数学は好きじゃなかったから。

 たけるが言うように自己言及命題と偽命題と無限集合が深刻なパラドックスを引き起こして、不完全性定理が生まれたことを気分的に支持していた。ヒルベルトなんて名前よりゲーデルっていうほうがカッコいいじゃない。……

『意味があるかどうかは常識で考えればいいのさ、この俺たちの住んでいる世界で。無限なんて自然界にありもしないし、それを人間の頭で考えられるわけがない。そうだろ?』

 ウィスキー・ソーダを少し斜め前にいたバーテンダーに注文する。あたしは、彼に勧められて、二杯目に試してみたセプテンバー・モーンに手こずっていて、ペリエを頼んだ。

『小学生の算数だって捨てたもんじゃないぜ。……もう一杯飲めばおれが飲んだ酒は、全部で五杯だ。酔って数え間違えていなければな。……このバーにいるのはおれたちを含めて七人だが、あと二時間経って十一時には何人いるかな? 足し算や引き算がいつでも、何にでも成り立つってことは驚くべきことじゃないか?』

 あたしはその言葉を聴いて、顔を上げた。それと同じような心的体験が数学に魅せられたきっかけだったからだ。すべての現象を丸ごときっぱりと言い切るもの、触れることができるほど明確な真理。誰でも知っている当たり前のことなのに、奇跡としか思えないような驚異。それに寄り添い、中に入りたかった。あたしは彼の目を見ていた。


 なぜそのカクテルを勧めたのかを教えてくれたのは、ずっと後、冬の朝だった。

「五錠なんだよ。食後の薬は、この錠剤三つとカプセル二つで。同じだろ?……」

 テーブルの上に白い錠剤と赤とクリーム色のカプセルを剥き出しで並べる。真理は変わらない。時間が経って、人がいくら変わってしまっても。

「勉強しろよ。もっときれいになるぜ。あん時みたいに」

「あはは、困ったね。モデルになったのに不細工になってるんじゃ」

「服も化粧もさっぱりだったけど、中から輝いてたからな」

 あたしはもう終わっているよと言いかけて止めた。病室の椅子って、どうしてこんなにお尻が痛くなるくらい硬くて、がたついて落ち着かせてくれないのだろう。


 沈黙が訪れて、しばらくして同室の患者が夕方のニュースを聴こうとしてか、テレビをつけた。それをきっかけに立ち上がって言った。

「あたし、帰るね。じゃあ、また」

「ああ、ありがとうな。……でも、もう来なくていいぞ。来週から抗癌剤の第二クールで、もっとぼろぼろになりそうだから」

 何気なさそうに、しかし目に読み取り尽くせない感情を込めて言った。

 そう言われてもまた来るよと言いかけたけれど、余計な負担を彼に掛けそうなので黙って微笑んで病室を出た。

 

 エレヴェータの前まで来て、病室はあたしがいなくなってベッドの数と同じ四人になった、いずれ、と彼は思っているのだろうとなかなか来ない階数を示すランプを見ながら思った。

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