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すべてがデータになる前に  作者: 夢のもつれ
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単性生殖っていいの?

 閃光が目を射る瞬間にあたしは、裏が赤くなる瞼に力を込めて笑顔を作る。

「いいね、かわいいよ! その表情! そうそうそう、いいよ……」

 気恥ずかしくなる科白を次々と大声で言うカメラマンが多い中で、今日の人は遠慮がちにしか言わない。あたしを直接見るよりもレンズ越しに覗く方がいいみたい。

 あたしのマネージャーが(と言っても専属ではなく、事務所の女性が時々そうするように撮影について来てくれただけだが)ポーズのお手本を示してくれる。メイクさんがヘアを直したり、スタイリストさんがドレスの皺を整えたりする合間に駆け寄って何かとアドバイスしてくれる。カメラマンが言い淀みながら「挑むような目線で」って言うのに、きょとんとしていると、「勝負パンツでデート行くときみたいによ!」と的確なお言葉が飛んでくる。駆け出しモデルのブリーダーなんだろう。

 

 広告代理店やクライアントが何人も周りを取り囲んであたしを見ているけれど、ストロボの中では目を瞑ってしまう。カメラマンだって、シャッターが落ちる瞬間は見えない。ただアシスタントだけが背を向けて、台に向かって黙々とフィルムの準備と整理をしている。ブローニーフィルムをパッケージから出し、カートリッジに装填する。カメラのカートリッジを交換し、撮影し終わったフィルムを取り出して、白いテープで止め、サインペンでデータを書き入れる。その一連の作業をこなしながら、「先生、ここはポラで押さえて置きますか?」などと、流れを俯瞰して言う。


 強風の中、多摩川を渡ってすぐの住宅地のスタジオに入ったのは一時過ぎだったから、もう三時間は経っている。まだ風が舞っているのだろう、屋根がバタン、バタンと鳴る。ここはCF製作用の大きなスタジオとは食堂をはさんで別棟のスチール撮影専用のこじんまりしたスタジオだから、床の差し渡しよりも天井の高さの方があるように見える。それなのに音がはっきり聞こえるというのはかなり風が強いのだろう。

「屋根、飛んでっちゃったりしないか?」

「いきなりビデオを先になんてやめてくださいよ。香板変えるの好きなんだから、かなわないな」

 クライアントの冗談に、代理店の営業が媚びるように言う。


 ストロボの一瞬後にくるバッテリーチャージャのぴぃって音を聞いていると、漸化式が想い浮ぶ。一見不規則なシャッターのタイミングに何らかの規則性があるのかという疑問があったからだけど、順々に次の項を生んでいく、単性生殖動物のような漸化式のイメージが突然あたしの脳内にやってきたという方が近い。

 単性生殖ってセックスやジェンダーからフリーになる、規制や欲望の煩わしさがないっていうことで、ユートピアだかアンチユートピアの幻想と結びつきやすいけれど、この間ふと肺吸虫の生活史を調べてみて、実際にはちょっと高等な生物だとやむにやまれぬサヴァイヴァル術としてやっているように思った。進化のメインストリームから外れたものだもんね。

 挿絵(By みてみん)

 肺吸虫は単性生殖の一種の幼生生殖を2回繰り返すのだけれど、川に住む貝類のカワニナを第1宿主にしている。卵は水中で孵って、繊毛のあるミラキジウムになり、カワニナに取り込まれるわけ。ミラキジウムはカワニナの消化管壁を貫いて体組織に潜り込み、繊毛を失ってスポロキストになる。

 カワニナの体内で、スポロキストがレディアを多数生み、レディアがケルカリアを生む。単性生殖って言うとクローンのイメージだけど、ずいぶん形が違うみたい。

 カワニナが第2宿主のモクズガニに捕食されたりすると、ケルカリアはカプセルに包まれたメタケルカリアになって最終宿主であるヒトがうっかりカニを生食するのをじっと待っている。

 最終宿主に取り込まれるとカプセルが溶けて、めでたく肺成虫こと肺臓ジストマは成虫になり、腸壁を食い破って肺や肝臓に達する。肺に寄生する時は気管支炎や肺炎をおこすし、他の様々な臓器に行くこともあって、脳腫瘍を起こすこともあるそう。

 エイリアンのような、はたまたレディアとかくるくる変わる名前だけ見てるとRPGみたい。特にカプセルに包まれたメタケルカリアなんか。


 …今は数学なんて全く縁を切ったつもりなのに、時々その影がノックしてくる。この靴の踵が微分方程式っぽいなあとか、この人の家の匂いって位相幾何の問題を思い出すなあとか、あたしにとって数学はぜんぜん抽象的じゃない。いくらエレガントでも数式を愛でるなんてよくわかんない。それを使って定理とか予想とかを導出していく方が楽しいし、その過程でまたいろんな連想、それは映像だったり、音だったりするけれど、そういうのがふわふわと浮かんでくるのが好きだった。そんなふうにあたしは数学と仲がよかったはずなのに、切ないほど愛していたのに、見事に振られてしまった。……

 

 ちょっと休憩にしましょうとカメラマンが言って、ぼんやりしていたことに気づいた。

「もっとじっくり撮ってみたいな」

 誰に言うともなく、あたしとマネージャーには聞こえるように言う。

「ね、もう一度考えてみない?」と顔が覗き込まれる。あたしがかぶりを振ると、「いいチャンスだと思うけどなぁ」と言う。

 写真集を出すと言えば今日のような(体の線がはっきり出てて、脚に深いスリットが入っていても)ドレスを着たものであるはずはない。グアムかサイパンにでも行くのだろう。南仏なんかではないと思うとおかしくなってしまう。


 この世界でデビューするには遅すぎる子を売り出すのに学歴なんかのプロフィールを出すのは嫌だ、写真集は嫌だと言われれば、事務所も困ってしまうのはよくわかる。でも、ぽつぽつと仕事があって、まあなんとか生活できるくらいの今の状態がちょうどいい。売れたくないのかと訊かれれば、身も蓋もなく肯定してしまいそうだけど、そこまでは訊かれないし、言わない。何が気に入らないのと言わんばかりに傍に腕を組んで立ったままの彼女に向かって心の中で、さあ、なぜでしょうねと呟く。


 休憩後の撮影はさっさと終わり、拍手とお疲れさまの掛け声がライトとともに消えて、高いところで青みがかった蛍光灯が点けられて、真っ黒な四囲の壁を照らすとスタジオは即物性を取り戻していく。その前にあたしは風はもうやんでいるようだと思いながら、着替えのために控室に向かった。

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