コクトーの声
海に突き出した望楼が長い城壁を左右に従えている。そこがジャン・コクトー美術館だった。駅前のバールで遅い朝食を摂り、皮を剥いだだけの兎やぐんにゃりした魚が並んだ市場をひやかして、朝霧が沖合いに向かって晴れていく町外れまで歩いてきた。
外壁と同じ砂岩がむき出しになった壁のところどころに彼の略歴なんかを書いたパネルが掛かっていて、それらをオレンジ色のライトが照らし出している。ストラヴィンスキー作曲の「兵士の物語」でのコクトーのしゃがれた声を思い出す。あたしはああいう声に弱い。
分厚い木の階段を上っていくと、小さな窓が見えてくる。他に窓はなく、ガラスも嵌っておらず、分厚な砂岩の額縁に海の絵を掛けてあるように見える。湿り気を帯びた風が撫でるように着衣の中に入ってくる。
兵士は王女を得た幸福に安住できずに、故郷での幸福を加えようとして、悪魔に何もかも奪われてしまった。幸福は一つで充分、二つあるとすべてが台無し……
彼の絵は技術としては、アマチュア以上、プロフェッショナル未満といったところなのかもしれないが、その危ういような線はとても魅力的だ。大きな油彩画よりもペンで描かれたデッサンに見入ってしまった。響きを薄くした音楽を思い出しながら、行きつ戻りつする。
たけるは「俺はパス」と言って入館しなかった。階下に牢番のような受付のおばさんがいるだけで、他には誰にもいない。あたしはサテュロスが田舎娘と交わる場面をモチーフにした絵の前で、そっとスカートの前を押さえる。昨夜、彼が挑んで来ながら、途中でやめてしまったからというのは言い訳。コクトーとしてみたかったんだものと潤み始めた畔が慎ましやかに言う。……
長くは待たせていない筈だけどって思いながら、曇り空の下に出る。海に背を向けてタバコを吸っていたたけると並んで、長い城壁に沿った道を歩いていく。彼は肩を抱こうとするが、恥じらいを憶えて少し離れて、白い大きな波が崩れ落ちる渚を眺める。
「……このあいだ、十五年くらい前に俺が設計したビルがぶっ壊されるところを車でたまたま通りかかってさ。そういうことは多いらしいんだが、目の当たりにするのは初めてだからちょっとショックだったよ」
「うん……」
「子どもに先立たれた感じって言うとおおげさだけど、五十年だって保つ代物なんだぜ。経済ってのはそういうのを気にしちゃいないんだろうけどな」
「壊される以上にもっと造ればいいじゃない?」
「あはは、やっぱりお前は女だな。たくましいや……でもな、ビルどころじゃないんだ。街ごとだよ。昔の団地とか知ってるか? 使い捨てにされてるんだぜ。子どもはいなくなって、年寄りばっかりになって。そういう流れには逆らいようがないや」
「使い捨ての街……」
「歴史は、才能以外のなんにも愛さないんだ……」
そうか。死後の不安を訴えているのだとやっとわかって、口を噤んでしまった。歴史に残っても不幸じゃ仕方ないじゃないとか、本当に才能のある人間なんて有名な人だってほとんどいないわよとか、慰めの言葉はありそうだったけれど、言えば彼が助からないのを前提にしていることに気づかれてしまう。
ビルの話も本当は取り壊されると聞いて、見に行ったのだろう。たとえあたしの匂いに気づかれてもいいと、黙って彼の腕の中に入る。彼はくっくっと笑いながら、
「おまえもずいぶん俺になじんだもんだ」と言う。
そういう直接的な言い方は昼間には言わないから頬が熱くなる。たけるの趣味のことかなと思うとよけい恥ずかしい。それとも別の意味合いがあるのだろうか。
少しずつ浜辺から道は逸れていく。狭い曲がりくねった路地の上に、湿り気を帯びた山へ向かう風に洗濯物が翻る旧市街に入って行く。