夜の時計はやがて湖に沈む
時間っていうのは、ふだんはよくわかってるものだけど、いざ何だろって考えるとわかんなくなるって言った人がいたそうだ。
何かが時間を超越した存在だって言っても、そういうことって思い浮かべられるのかな。存在ってモノ自体が、時間の中に埋め込まれてるって思うけど。論理展開を時間的継起と無関係に考えるって簡単じゃないよね?
時間は川が流れるみたいに流れない。時間が川だとしたら、水は何? 変わっていく物質、意識、概念…そんな水に川のことがわかる?
どこからどこへ流れるの? 上流は過去で下流は未来? それって見えるの?
過去は消えてしまったし、未来は未生。あるのは現在という0次元の点。でも、それ自体が時間の否定じゃない? 動いていく湖のボートみたいにって言うんだったら、あなたはどこから見てるの?…
あたしはゆうくん相手にめずらしく長口舌を振るっていた。
「君はコンピュータのことを言ってるのかな。コンピュータは人間になれるかっていう、古典的な命題のことを。…誰もわかっちゃない。ふつうのPCには時計が入っている。でも、それは絶対必要なものでもない。ログを取ったり、決められた時刻にコマンドを出したりするのに必要なだけで、はずしても動作に問題はない。コンピュータにとって時間は外からくっつけられたものなんだ」
「それって人で言うと腕時計をつけている時だけ時間がわかっていて、外すとわからなくなる。そのまま寝ちゃうと永遠に起きられなくなる、そういうこと?」
昨日の夕方、たけるが死んだと主治医が教えてくれた。彼のことは入院時にかなり深いところまで説明してあった。あたしが2回もお見舞いに行ったのにたけるは一度も来てくれなかった。今までお通夜や葬儀に行って物質に還ってしまった人を見るのは意味がないと思っていたけれど、会いたくて仕方がない。ずっと時間の彼方の彼に語りかけている。
「理屈はそうかもね。でも、真っ暗闇に閉じ込められて、時計がなくても人間ならそんなことはない。かえって時間を強く意識するよね? 眠る前にもう二度と目覚められないかもしれないという怖れをもったことのない人はいないだろ? あれは時間という魔物が戯れに人の心を鷲摑みにしているんだ」
「時計って本当に時間を測っているの? 物の長さなら物差しで、例えば20cmなら20cmと測れる。じゃあ、時計は? 例えば今は7:18だと示していても、それは0次元の点しか示していない。0:18から7時間経ったっていうのは計算しないとわからない。見えていない」
「なるほどね。…遅刻しないようにって時計を進ませている人がいるけど、あれって体重を気にして体重計を狂わせたりするのと同じなんだろうか」
「時計は一定の速度で動くものであれば何でもいいの。時間は時計の外にある。…いつも決まった時間に散歩する哲学者が街の人の時計代わりになってたってエピソードが好き。時間について思索をめぐらせる哲学者が時計になるなんて」
「確かに。時間はモノじゃない。だから、時間がないとか、あるとか言うと意味にずれが生じる。モノでいちばん近いのは、鏡だ。鏡の正確な絵を描いてください。もちろん鏡だけしか描いてはいけません。…」
「ああ、コンピュータの話だった。人間が教え込んだことを忠実に実行する奴隷。教え込まれたことを繋ぎ合わせて臨機応変に対応してくれる執事。あたしにはコンピュータと『いい香りのお花ね』『そうですね。私もデルフィニュームは好きです』そんな会話ができれば十分なのだけれど」
あたしたちはいつものように繋がっているのか、いないのかよくわからないような会話をしていた。あたしはそれを調和しながら移調していく付合の文学、連歌に擬していた。
「まーちゃんがひらひらしてる。まるで朝の礼拝のように。ぼくは君とコンピュータで人間のことを学んだ。他の連中はジャンクなデータしか送ってこない。君は何でもわかっている。言葉なんかに頼ってものを考える薄っぺらさをぼくは知った。言葉なしで考えることはどうしてもできないんだけど、その奥にあるものはわかるようになった。太陽が言葉の奥にあるもので、まぶしくて目をそむけるようなものかもしれない。…今日はすっかり晴れている。ぼくは青空なんて嫌いだけど、君は気持ちいいみたいだね」
見習いナースが傍に座って何か世話を焼こうとしている。そんなにピリピリを巻きつけてまーちゃんが疲れるって思わないの? 自分が涎を拭いてあげて看護記録に書くネタができたと思っているの? ジャンクなデータ。何かを学ぼうとしてここにいるんじゃないの?
まーちゃんがひらひらすると、時間が動き出す。でも、まーちゃん、今日の明け方も誰かが死んだのよ。時計をはずしたまま寝ちゃったのかな?