素数とπは星月夜に戯れる
「新月の夜、ママたちがぼくのベッドにやってくるんだ。少し寒いけれど、毛布をめくって仰向けになる。大山椒魚が歩いてくるような音がして、すぐにぼくの身体は暖かくなる。潮が満ちてくる。静かに、おそろしいほどの高さまで。周りのベッドの患者は静かに死んでいる、夜明けまで。ママたちは微笑みながら見つめている、粘液質の闇の奥まで。無数の手と脚がからみついてくる、ぼくの脊髄の中まで。バッソ・オスティナートのような動き。…」
消灯後のデイルームで、ゆうくんと話をする。ナースは面倒なのか、見て見ぬ振りをしている。ゆうくんの話はよくわからないけど、よくわかる。彼の見たものが見えてくる。
「暗い夜には、黒い血が飛び散り、流れない。痛みはすべての感覚の母親でしょう? 『今、どこにいるの?』ママたちが訊く。ぼくは答える代わりに巨きな魚に呑み込まれたヨナのことを考える。それだけでママたちはぼくを呑み込んでくれる。くすくす含み笑いをしながら。ぼくはごぼごぼ言いながら消化されていく、生もなく、死もない、どろりとしたただの蛋白質に」
ゆうくんの痛みが伝わってくるような気がする。大きな窓から見える空に時折、ピカピカと閃光が走る。誰かが誰かに合図を送っているんだろうか。神々だろうか、巨人族だろうか。
「ぼくには関係がない、ぼくは取り残されている。バラ色の匂いをベッドに残してママたちは去って行った。ぼくの息が整って、眠ったふりをしているのを信じたのかな」
…別の誰かがデイルームで、何か考えてる。はっきり伝わってくる。ゆうくんはいつの間にか去っている。非常口のライトに照らされて、ソファの上に白い塊が見える。大きな繭のようなそれに近づいて行くにつれて、タオルケットに誰かがくるまっているのがわかった。
まだ考えている、でも身動き一つしない。さっきから『やめてくれない?!』と声に出さないで叫んでいるのに反応してくれない。いくら叫んでも時間の向こうに吸い込まれていく。
仕方ないので少し離れて座る。雨の上がった公園のベンチのように。ああ、そうか。これは二人でゲームをしているときの感じだ。タオルケットの中も楽しんでいる。昔やったいろんなゲームを頭の中で動かしてみる。
2章までクリアしたところで、タオルケットから顔が出る。…あたしだった。
「どうしたの?」
少ししゃがれた声で訊く。
「別に…」
「何を考えてたの?」
「数学の問題。……ゼータ関数って知ってる?」
知っていた。でも、忘れてしまった。
「すごくおもしろいんだよ。いろんなおもちゃが次から次へと出てくるみたいで」
うん、そうだったような気がする。まるで繭から巨きな大水青が出かかっているように。月に導かれなくても羽化するのだろうか、青白い翅はもう乾き始めているのだろうか。
それを伝えたくてあたしはもう一人のあたしを現出させたのだろうか。
「ね? なんかお酒でも飲みたいね」
親密な声が聞こえる。ここでは酒は飲めないし、あたしは飲まない。
「どんなの飲みたいの?」
「カクテル。例えば…」
「そこ! 誰かいるの?!」
不安が混じった声で夜勤のナースがあたしたちを懐中電灯で照らす。一人のあたしが消える。
「……だいじょうぶ?」
その声に見送られるように、青ざめた蛍光灯に照らされていつも以上に凹凸だらけに見えるリノリュームの床を戻って行った。