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この恋は、きっと敗北宣言。

 人生は、愛という蜜をもつ花である。


 ヴィクトル・ユーゴー(1802~1885)


 **


 恋愛は、好きになった方の負けだとよく言う。

 旦那が尻に敷かれるかかあ天下の家庭など、まさにその象徴だ。


 ならば愛の告白は、敗北宣言と言えるだろう。


 ――私は、ある人に恋をしている。

 本の虫で誰とも喋らない、いてもいなくても変わらないような私とは違って、いつも活発でこのクラスの中心核にいる彼。

 惚れたことそのものが敗北であると同時に、この恋の行先もまた敗北だと、思っていた。


 私には、覚悟がなかった。

 住む場所が違う彼へその壁を乗り越えて、壊して、そして告白するだけの覚悟が。


 或いはプライドがあったとも言える。

 貴方が好きです、なんて。そんな敗北宣言を言えるわけがないという、ちっぽけでくだらないプライドが。


 だから私は、本に逃げていた。本の中の文字通り劇的な恋愛を拠り所にして、現実の恋愛から目を背けていた。


 なのに、なのに。


「あのさ。その本だけどさ……面白いの?」

 神様は、どうやらこの恋を忘れさせてくれないらしい。


 ぐるぐると、頭を沢山の言葉が駆け巡る。

 本に興味あったんだ、とか、急にどうしたの? とか。緊張で血液が沸騰しそうなほど熱くなるのを感じる。きっと、私の顔は真っ赤に染まっていただろう。


「……え?」

 結局、声に出せたのはたった一音だけだった。それも随分と不機嫌そうな響きになり、目の前の彼を慌てさせる結果になる。


「え、ええと……急にごめん、いっつもその本読んでたから。面白いのかなって」

 頭を掻きながらぎこちなく笑う彼の言葉に、私のことをいつも見てくれているんだ、とくだらないポイントを見つけて浮かれる自分が恥ずかしい。恋は敗北どころか、これでは無条件降伏ではないか。


 思わず視線を閉じた本に逃がす。

 レ・ミゼラブル。青を基調として描かれた少女の映る表紙は、幾度の読み返しを経てボロボロになっていた。


 確かに、何度も読み返しているのは事実だ。

 だけど。


「……嫌い」

「えっ」

 誰も幸せにならない、悲惨な人々の物語。

 私はこの本を読んでいないとあなたとの恋を忘れられないけれど、この本がある限り忘れられない。


 だから、私はこの作品がとてつもなく嫌いだ。


「ごめん、読書の邪魔だったよな……」

「あっ、えっ、待って」

 だが彼はどうやら、嫌いという言葉が自分に向けられたものだと誤解したらしい。悲しそうな顔で立ち去ろうとする彼を、慌てて立ち上がりながら引き止めた。


 ギギィと、椅子が傷んだ木目と擦れる音が響く。


「違う! そうじゃない、から」

「そ、そっか?」

 出し抜けに大声を出され、彼は怯んだ様子を見せる。実際こんな大きな声を出したのは随分と久しぶりで、自分ですら驚いてしまっている始末だ。


「そうじゃなくて、えっと……本のキャラクターが、嫌いで」

 上手く誤魔化せたとは思えない。だが、彼はそれ以上詮索する素振りを見せなかった。


「それ、どんな話か聞いてもいいか?」

「えっ」

 思わず顔を上げると、また彼の端正な目とぶつかる。瞬時に恥ずかしさが込み上げ、今度は窓の外へと視線を逃がしそこにいた対象物へ意識を動かした。


 マヒワ、だろうか。

 黄色い腹をした二匹の鳥が、ベランダの手すりに並んで止まっている。つがいなのか仲睦まじげなその姿に、私は少しだけ羨ましいと思ってしまった。


「なんで、教えなくちゃいけないの」

 鳥にすら嫉妬した自分に苛立ったせいだろうか。そっぽを向いたまま、また乱暴に唇が動く。

 恥ずかしさが、照れが、私の本意を隠そうと躍起になっていた。


 だけど、同時にこれでいいと思っている自分がいることに気付いた。このまま貴方が離れてしまえば、私はきっとこの恋をいつか本当に忘れられるのだと。


「××、ドッヂやるけど来ねぇの?」

 不意に、彼の名が溌剌(はつらつ)な声で呼ばれる。普段は放課後になるや否や我先にと飛び出す彼が珍しくまだ教室に残っていることに、声の主は気付いたのだろう。


 ――そうだ。私と貴方は、住む世界が違う。

 貴方には、貴方を求めるたくさんの人がいるのだから。


 これでいいんだ。



 これが、正しいんだ。










「いや、今日はいいや」


 今度は、声すら出なかった。

 頭の中が真っ白になる。


 だがそうして硬直している私をよそに、友人は彼と二言三言の会話を交わした後に去っていった。連れていくはずだった彼を、私の目の前に残して。


「……行かなくて、よかったの」

「本の話、聞きたかったからなぁ。あ、でも話したくないんだっけ」

 自分でも嫌になるくらい邪険に扱ったつもりなのに、それをまるで忘れていたかのように彼は優しく笑う。


 気が付けば、クラスの皆はもう帰ってしまっていた。放課後も塾や家事手伝い、遊び等、暇の無い生徒は多い。私や彼のように、こうして夕焼けの橙に染まった教室に残る人間の方が稀だった。


 ――やっぱり、怖い。嫌われたくない。


 じわりと、胸に臆病な私が現れる。それはどんどん拡がり、その度に胸をぎゅっと締め付けた。

 遂に痛みに耐えきれなくなった私は、無言のまま立ち上がって自分の鞄をロッカーから取り出す。


「……帰りながらでも、いい?」

 本について話すことが、嫌なわけじゃない。

 ただ、もしずっとここに居たら。貴方の藍色の瞳と見つめあっていたら。


 きっと私は、ボロを出して(恋を悟られて)しまうから。

 だから、話したくなかっただけだ。


「あ……あぁ!」

 絞り出したような言葉に、ぱぁと彼の顔が明るくなった。そうして彼は、ロッカーに跳ねながら向かう。


 私にはその一挙手一投足すら、とてつもなく愛おしく見えた。


 緑色のスクールバッグを肩に掛けて、私は彼の準備を待つ。あの本だけは鞄に入れず、寒さにかじかむ右手に持ったままだ。


 やがて、彼もスクールバッグ片手に振り向く。

 紫色の大きなキャラ物のキーホルダーが、陽射しを反射して輝いていた。


「行こっか」

 それは一体どっちが、呟いたのだろう。その言葉に私達は互いに頷いて、そして照れ臭そうに微笑んだ。


 絵画みたいな陽だまりが、ただ静かに揺れる。


「……ねぇ、本の話の前にひとつ訊いてもいい?」

「ん?」


 もし、仮に。これはほんとにただの仮定の話だけど。

 いつか、私が想いを告げた時。貴方は一体どんな反応をするのだろう。


 こっぴどく、振るのだろうか。

 それとも笑って、受け入れてくれるのだろうか。


「××って、好きな人とか――」

 笑ってくれたら、いいな。

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