この恋は、たぶん負け戦。
愛すること、それは行動することである。
ヴィクトル・ユーゴー(1802~1885)
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最初は、本能ということにしていた。
猫がその意思に関係なく猫じゃらしに飛びついてしまうように、動物的な本能で僕は彼女のポニーテールから目が離せないのだと。そういうことにして、納得させていた。
だけど僕は、そろそろ認めざるを得ないらしい。
僕が見ていたのは、ポニーテールでは無いということを。彼女そのものを、目で追ってしまっているのだということを。
そしてそれは、きっと恋によるものなのだということを。
田舎の、公立の、さして頭がいいわけでもないごくごく普通の中学校。
そこに、僕と彼女は居る。
成績も性格も関係ない、ただ近くに生まれた同い年の人間を適当にぶち込んだこの部屋の中で、僕は一人の人間に夢中になってしまった。
風にそよぐ柔らかなポニーテール、冬の寒さにほんのり紅潮した頬、無造作に机の下で組まれた細い足。
想いに気付いた瞬間から、いや気付く前からずっと、そのどれもがとてつもなく美しく見えた。
だけど。
かたや、休み時間は教室の隅で黙々と本を読む人間。
かたや、休み時間に中心で友人達とワイワイ騒ぐ人間。
僕達は、住む世界が違いすぎていた。
だからこの恋は負け戦なのだと、僕は諦めた。今日までずっとこの想いに蓋をして、見ないふりを続けていた。
でも、どうやら僕は恋の力とやらを見くびっていたらしい。出会いからずっと、彼女への想いは際限なしに膨らみ続けていた。それはもう押さえても押えても、隠しきれないくらいに。
――話しかけて、みよう。
だから今日、僕は捨てたはずの恋にもう一度向き合ってみることにした。
体育祭でも文化祭でも修学旅行でもない、今日というなんてことの無い平日に何故思い立ったのかと訊かれると、それは僕にもよくわからない。
魅力的な女性を「魔性」と呼ぶならば、今の僕は多分「魔が差した」状態なのだろう。少なくとも、理屈で説明できるものではなかった。
「――以上、これで今日の授業は終わりだ。連絡は無いから、もう帰っていいぞ」
偏屈な老教師が鐘の音と同時にボソリと呟くと、当番の生徒が棒読みの号令をかける。先生には申し訳ないが、授業の内容は欠片も頭に残っていなかった。
教師の退室と同時に、弾かれたように僕は立ち上がる。だが彼女を含めた教室の誰もが、僕の突発的なその動作に大して意識を引かれた様子はなかった。まぁ、そりゃそうだろう。
彼女の元へと歩く足取りは、立ち上がった勢いに反してとても鈍い。そして近付くにつれ、その鈍足さは更に増していった。
目の前まで辿り着いても、彼女が僕に気付いた様子はない。ただ、律動的なペースで本を捲るのみだ。
それに甘えて一度、大きく息を吸う。埃っぽい教室の空気が、肺を押し広げた。
――瞬間、窓を揺らしていた風が凪いだ。
僕の声を、彼女が一言一句聞き逃さないように。そんな神様の粋な計らいなのだろうか。
吸い込んだ声を、ゆっくりと音に変えて吐き出す。
「……あのさ」
声は、震えていた。
あまりにも情けないその声に一瞬後悔が脳裏を過る。今からでも誤魔化してやめてしまおうか、と僕すら知らなかった臆病な自分が、ここに来て顔を出そうとしていた。
「なに」
返ってきたのは疑問符すらない、つっけんどんな声。と同時に、ポニーテールの彼女は読んでいた本を閉じて顔を上げる。見慣れていたはずのその美しさに、僕は緊張も忘れて息を呑んだ。
どうやら吸い込まれそうな黒の瞳は、事実僕の臆病を吸い込んでくれたらしい。続く言葉は、案外するりと飛び出した。
「その本、だけどさ」
なんの意味を表すかも分からない横文字のタイトルからは、改めて僕と彼女の遠さを実感させられた。
休み時間の度に馬鹿騒ぎをする僕と、無言で読書に耽ける彼女。こんな田舎に生まれなければ、そもそも僕達は出会うことすらなかっただろう。
だけど、僕らは出会ってしまった。永遠に平行だと思っていたその二本線は交わってしまった。
僕はこれから告白するわけではない。ただ声を掛けるだけだ。付き合おうなんてワガママを言うつもりは無い。この恋は、負け戦でいい。
だけど、彼氏にはなれなくても。
友達くらいになら、なれないだろうか。
「……面白いの?」
幼稚園児が母親に問いかけるような、頭の悪い質問。僕の予想外の問い掛けに困惑したように、彼女は眉を八の字にした。
たった一度の会話だけで、これまでロクに話さなかった僕らの関係が塗り変わるなんて。
そんな烏滸がましいことは、僕も思っちゃいないけれど。
だけど、ここから始めなくちゃ。