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転がる卵のサウダージ6

「そう、そういう事ね……」


「か、母さん……」


 ミロンの外を出ると同時に、母さんが扉のすぐ横で、壁にもたれ掛かっていた。この人は親父と異なり、神出鬼没だったり、時折我儘だったりもするが、とにかく鋭い所がある。大概隠し事を見抜くのも母さんで、あまり刺激すると「酷い目」に合う事もしばしばある。親父は黙って困った顔をするばかりなのだが。


「妙だと思ったわ。何であなたがミロンさんが文字を読める事を知っているのかってね。毎日こうして部屋に入ってれば、そりゃあわかるわね」


 後ろからジェーンさんが顔を覗かせる。これで、俺の平穏な秘密は呆気なく奪われたわけだ。母さんは壁から身を起こし、俺に向き直る。凍てつく空気が肺の末端まで行きつくのに、それ程時間はかからなかった。


 母さんは取り出した懐炉を俺に放り、直ぐに踵を返す。彼女を止めようと声を荒げると、呆れたような大きなため息と共に、彼女特有の細く、柔和な視線がこちらに向けられた。


「貴方ね、エルドの事を甘く見てると、足元掬われるわよ。あの人は鈍感に見えて、妙なところで鼻が利くから」


 そう言って、母さんは唇に人差し指を合わせる。どうやらこのことは秘密にしてくれるらしい。俺は懐炉を持ったまま、彼女が管理人室に戻っていくのを見送った。


 ひとしきり背筋の凍る体験をして、文字通り肝も身体もめっきり冷え切ったところで、俺は懐炉を入れたポケットの中に、手袋ごと手を突っ込んで歩き出す。


 まだ季節は豪雪を降らすには速い。曇天も垂れ込めるばかりで取り立てて動こうともしない様子だ。集合住宅の階段を下りる間に、何人かの猟師が俺に手を挙げる。俺もそれを返すと、彼らの無邪気な笑みに堪えられなくなって顔を背け、自然と大きくなる歩幅が段差を二段飛ばしで駆け下りて行く。


 人の営みはいつも一定で流れて行く。雲の動きの速度に合わせて動くわけではない。陽気なハンターたちはこれから、先住民に安価な家財道具を売りつけて、大量の毛皮を受け取りに行くか、アーミンを直接狩るかするために、このウラジーミルの城壁を飛び出し、未だ緑の残る針葉樹林の隙間を駆けるのだろう。


 俺にはこの集合住宅を継ぐ役割があるから、それは出来ない。もしも親父が変わらず貴族であったなら、贅沢な暮らしが出来て、もしかしたら狩りにも出かけられたかもしれないのに。この町では所詮一市民で、プロアニアからの年金を貯め込む母さんでさえ、人々は馴れ馴れしく手を挙げて挨拶をする始末だ。

 俺は丘を登り、住宅地と市場からずんずんと離れて行く。地平線が水平線にとって代わる頃、絶壁の上に、いつもの丸まった背中が見える。その背中は憑りつかれたようにシロカラを書き、傍らには分厚い本を入れた革製の鞄を抱えている。潮風のにおいがこびりついた厚手のコートから覗く、立派な財布には、彼がどうしても「欲しがった」卵型のストラップが付いている。


 俺は今日も、その背中に嫌気がさした。


「あぁ、ピアルか。今日はどうだった?父さんは、プレゼントの本を選んでいたんだけど……。ピアルがいてくれてよかったよ」


 卵、卵、卵……。財布に取り付けられたストラップだけが、異様に俺の視線を釘付けにする。あまりにもその場所が窮屈なように思われたからだ。

 断崖絶壁から臨む海は荒々しく波打ち、時折激しい音を立てる。大地を削り取ろうとする獰猛な水の攻勢は、絶えず退いては迫り、時折白い飛沫を上げて霧散する。親父が首を捻った。


「どうしたの……?」


 心配そうな目で、折りたたんだ膝の上に乗せた下らない紙束(しごとどうぐ)を大事そうに自分の胸元に寄せる。洋梨型の卵(おれ)の顔色を窺うように、眉を潜め、女々しく縮こまって、関心があるように装っている。


「あのさぁ……。親父。いい加減にしろよな」


「ど、どうしたの?不満があるなら言って」


 俺はポケットの懐炉を握りしめる。ほんのわずかな仕切りで区切られていた砂鉄と炭と食塩とが、俺の手を異様なほどの熱量で温めた。

 潮風が白くなる。無惨な黒い雲がごろごろと唸り出す。手元から、くだらない紙束を離そうとしないエビのような男が、潤んだ瞳でこちらを見上げている。

 俺は耐え難い不快感に、彼の鞄を蹴飛ばして男の隣に立つ。視界から消えた鞄は、彼の大事な馴れ合いの証と共に、崖の下に落ちて行く。必死にそれを掴むこの男が、散らばった道具諸々を懸命に搔き集めるそのつむじを、冷めた目で見下ろした。


「な、何をするんだ!プレゼントも入っているんだから……あまり乱暴しないで」


 歯を剥き出しにして怒る事もない。目を白黒させて、如何にもかわいそうな目で、俺を見上げてくる。


‐こいつが可愛いのは、結局自分だけなんだろう?


「俺は、親父の息子になりたくなかった」


「……え?」


「俺は、洋梨形の卵(あんたのこども)なんかじゃない!」


 呆然とする親父に怒鳴りつけると、俺は手に持った懐炉を叩きつけた。地面に砂の雪崩れるような音が鳴る。黒ずんだ懐炉の包装が、むき出しの湿った草を踏み均す。


 とにかくその場から逃げ出したかった。即座に足が動く。衝動的に崖沿いを駆け上る足は、鉛のように重い胸を引き摺りながらその頂上を目指そうとする。背後から聞こえる悲鳴のような声も、白い海が波打つ音にかき消されていった。

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