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転がる卵のサウダージ5

 いつも分厚い雲に覆われた、陰気な空気の漂う街。俺はこの町が一等嫌いだった。市場に出れば喧しい仲間達の声と、夜の商売を誘いに来る大人達の群れに出くわす。

 道行く人混みの中にはいつも肉を焼くにおいと、四六時中酒に溺れる猟師兼運送屋の男達が、下世話な世間話に精を出す声が響く。だだっ広い都市の、格安の土地の中に、これまた格安の、異様に手狭な集合住宅な軒を連ねる住宅街には、極寒の地に相応しい家畜や、ゴミを拾う貧民や、バケツに座って井戸端会議をする浮浪者達が家の裏に屯している。


 ムスコール大公国と言う国は、貧者に優しくするために仕事を「与えてやり」、富める者の冷酷さに「立ち向かう」人々が、「単なる繰り返しの日常のために生きる事を幸福と言う」、偏屈な者達の寄せ集めのような町である。一般大衆がそうして広場に集まってバカ騒ぎする事が幸せだとのたまうのならば、真実の幸せとはきっとこの国に存在しないはずのものだったに違いない。


 そして、そう言う穏やかさを好きだと言って聞かないのが、俺の父、エルド・フォン・エストーラである。この男、血統だけは良いのに、これっぽちも欲がなく、俺達を楽させようとするのに、これっぽちも行動を起こさない。受動的、受動的、受動的。いつもきっかけは他人で、巻き込まれた政争に勝利しかけてもそれをみすみす手放す始末だ。ありきたりな幸福によって塗り固められたこの町には、うってつけの人物だったことだろう。

 何よりも腹が立つのは、この男が俺の事を知ろうともしない事だ。普通、子供の事を知ったら、きちんと親として向き合って、せめて自分の幸福の尺度に見合った世界に子供を導こうとするだろう。この男はそれすらしない。いつも困ったように眉を下ろして微笑み、「仕方ないよね」って、それだけ言う。周りの事を知ろうともしないで、優しい風を装っているこの男が、俺はこの町に並んで、一等嫌いだった。


「親父、行った?」


 俺は部屋の押し入れから顔を出す。ミロンは黙って頷き、いつもの席に腰かけた。

 この部屋ではいつも、インクと、古ぼけた雑誌と、絵の具のにおいがプンプンする。彼方此方にばら撒かれた紙切れ一枚一枚がこの老人の作品で、この老人は惨めな仕事を繰り返しながら、これ程膨大なものを作っている。俺には何を書いているのかもわからないし、殊更興味もない難しいものだろうが、この老人はきちんと俺と「向き合っている」ような気がした。


「お前、さては話したな?」


「文字が読めるって答えただけだよ」


 ミロンは右の頬を舌で膨らませる。席に着き、黙々と作業を続ける事が殆どだったが、今回はそう言うわけにもいかなかった。俺は疑いの目を向けるミロンから逃げるように、彼の持つ雑誌の山の中から一つを引っ張り出して開いた。


「だってあいつがさ、あんたの事如何にもかわいそうな人って目で見てんだよ。そんなの、おかしいだろ」


 かわいそうも何も、この老人はこの暮らしに納得してやっている。如何にも自分は平等主義者の平和主義者ですといいたい親父らしい立ち振る舞いだ。


「まぁいいさ。私には関係のない事だ。部屋を散らかしてくれるなよ?」


 ミロンはそう言って座椅子に腰かけなおした。


「はいはい」


 いくら何でもこれ以上散らかることは無いぞとは、流石に言わなかった。


 この窮屈な部屋は幾らか静かで、他人とかかわる必要が基本的にない。俺はミロンがゴミ箱から漁ってきた雑誌を読むし、ミロンはゴミ溜めのようなこの場所で、黙々と何か書きごとをするだけだ。暇をつぶすという意味では外へ繰り出すよりもずっと健全で、金もかからないし、この男との交流を黙ってさえいれば、誰にも迷惑をかけない。


 ……まぁ仮に家族にかけたとしても、親父は却って喜びそうで腹が立つが。

俺は乱雑に敷き詰めてある紙切れを適当に端に寄せながら、昨今若者に人気のモードについての記事を追う。プロアニアではファッションと呼ぶべきものは殆ど無いとされるが、逆にこちらにはそのファッションが輸入されてきているようだ。確かに、彼らの服装は味気ないが、それだけに、有産市民が身に着けるのに都合がよい量産型の服だ。そして、服装を気にすることが出来るのは、ある程度上流階級に限られるので、首都ではそのような服の人が増えているのだという。


「……爺さんは、服装とか気にしなさそうだな」


「ん?なんだ?私はそれなりに気を使っているぞ?」


 ペンを持つ手があからさまに停止する。俺はミロンの服をじっくりと観察した。

 ぼろ布を纏っただけのような、つぎはぎだらけで毛の逆立ったセーターに、元々はくるぶしが完全に隠れたであろう、ほつれが悪化してスリット然としたサンキュロット、髪は頂点が禿げあがっていて、聖職者の如く周囲にだけ白髪が残っている。髭は伸び放題、襟は立ちっぱなしで、ワイシャツは黄ばんでいる。


「そうか、それは悪かった」


 俺は記事に戻った。自慢げにポーズをとる女や男の姿が描かれているページには、寒そうに蹲る浮浪者の姿は認められなかった。


 俺は雑誌を放る。埃が周囲に立ち、砂煙を擦った時のような、鼻のむず痒さに思わず咳き込んだ。


「気が済んだか?出て行くと良い」


「分かったよ、お邪魔しました」


 俺は立ち上がり、尻を叩いて部屋を後にした。

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