転がる卵のサウダージ4
翌日、僕は管理の仕事を終えて、件の老人の部屋を訪ねる事にした。今日は薄曇りの空で、陰鬱な雰囲気が漂っている。フランはこれをよく「プロアニアの霧のようなもの」と称するが、恐らく陰鬱さで言えばこちらの方がより強い。何と言っても、太陽の光が届かないのだ。特に、冬ともなればもっと悲惨だ。何と言っても、この国に急斜面の屋根や玉葱状の屋根が多いのは、その底が抜けないためなのだから。
僕はかの老人、ミロン氏の部屋の前に立つ。目いっぱいに詰められたプロアニア風の情報誌、ムスコール大公国風の他人を責めない穏やかな宣伝広告の類が簡易ポストにはちきれんばかりに詰め込まれている。他の部屋よりも一等塗装の禿げが多い扉の、不必要に綺麗なノッカーに手をかける。
一度深呼吸をして、僕はそのノッカーを叩いた。
暫くして、もぞもぞと部屋の中を動く音がする。それと同時に、「何者か」が部屋の奥へと移動していく音が聞こえた。
(二人、いる……?)
それとも、動物かも知れない。僕はノッカーから手を放し、のっそりと近づいてくる足音を待った。
足音が止まって少し後、ミロン氏が扉から顔を覗かせる。
仄暗い部屋の中に、小さなオレンジ色の照明が灯っている。その逆光を受けた、ミロン氏の表情は暗く、異常にやつれて見えた。
彼は私を認めると、驚きと言うよりは喜びの表情を浮かべる。彼の表情は、口の中に何かを含んだように動く頬の盛り上がりでしか読み取れない。僕は、改めて手を挙げて挨拶した。
「お世話になっております。誕生会の件で、ご相談がありまして」
「お気持ちは嬉しいが、無理に祝っていただかなくても、結構ですよ。私の事を忌避する人も多いでしょう。貴方が善良で穏やかな方であることは知っていますが、私はその為に惨めな気分になりたくはないのです」
ミロンは頬を吸い寄せるように、口腔内の空気を吐いた。彼の頬が細くなる時と言うのは、得てして残念がっているか、遠慮している時である。僕は、彼の足元に視線を下ろした。
貧民特有の、穴の開いた靴からは、水虫と思しき変色した爪が覗いている。異臭と言うには些か生活のにおいを残した、汗臭さが漂っていた。それらが老人特有の臭いと合わさって、彼を忌避する人々の言う「陰鬱な表情の老人」の姿を形作っている。
チェーン越しに部屋の奥を見る。ピアルの言うように、たくさんの書籍らしいものが見えた。僕は我が子に感謝をしながら、ミロンの陰鬱そうな顔に視線を戻した。
「そう言わずに……。そうだ、本はお好きですか?実は、プレゼントに本などどうか、と妻と話しておりまして……」
ミロンは意外そうに目を見開く。暫くして、元の表情に戻ると、僕から視線を外し、古い紙の積みあがった部屋の中に振り返った。暫くはそうして背後を見ていたが、やがて右頬を思いきり舌で膨らませた顔がこちらを向いた。
「もう、好きにしてください……」
ミロンはそう言って静かに扉を閉ざした。まるで、僕の言葉を遮るように扉が閉ざされた。
ウラジーミル特有の、睫毛に被さる霜を払い、白い溜息を吐く。降雪こそないが、渇いた冷たい空気が肺を思いきり凍てつかせた。吐き出す空気にぬくもりを感じながら、ポケットの中に手を入れる。懐炉の温もりでかじかんだ手を温めると、僕は頭を振って再び歩き出した。
この気難しい老人は、実際にはかなり他人を気遣う人間だと認識している。そうでなければ、私の事を構わないでくれとは、恐らく言わないだろうからだ。誕生会自体は少数でも楽しそうに振る舞う事が出来る人だし、室内で動物を飼う程には、恐らく誰かと共に生きたいのだろう。貧しいなりに生活をこなす孤独な老人の事を、僕は「奇妙な人間」のように扱うことは出来ないし、彼は長年僕と付き合いがあるわけだ。どうにかして、彼の事を祝ってあげたい。
僕は首を垂れたままで市場に赴く。長く霜の張った冷たい土の上を、顔を防寒具に埋めて早足で進んだ。
ウラジーミルの市場と言えば、一次産業と三次産業との利権の鍔迫り合いが名物である。未だ若い町であるため、その人口の総数は都心には遠く及ばないものの、そこに占める若者の割合は非常に多い。毛皮を獲った人々がウラジーミル市場前駅に赴いては、貴族垂涎のアーミンの束と、貴重な食料と、僅かばかりの銀貨とを取り換える。その銀貨は、駅直ぐの市場で飲み代や、遊興費に消えるか、公営銀行の窓口に吸い込まれる。利回りは悪いが解体されない安心感が、公営銀行の魅力だった。
こうした若者の活気あふれる市場の賑やかさは、ムスコール大公国の首都、サンクト・ムスコールブルクにも匹敵する。何せ声が大きい。そして取り組みは全て先進的で、時々馬鹿馬鹿しい。そう言う雰囲気だから、僕はその中で一等静かな本屋に立ち寄る時も、少々緊張しなければならない。
霜の付いたベルが入店を告げると、ウラジーミルでは比較的珍しい、ひげを蓄えた中年の男が、僕を認める。
「どーも。また教授に論文集の編纂でも頼まれましたか?」
歓迎色のない、全く素っ気ない言葉が向けられた。大学の出版物と言うのは、全く稼ぎにならないわけではないが、数多の娯楽作品と比べると需要がニッチで高価になりやすい。まして、若者たちの町である。それだけに、この店長はいつも僕を警戒していて、在庫を抱える事を恐れている。棚が埋まる事の不便さは、多分商人になってみないとわからない事だろう。
「こんにちは。……いいえ、今回は普通の買い物です。プレゼントに本を、と思いまして」
暇つぶしに読んでいた新聞を机の上に放った店主は、待ってましたと言わんばかりに腰を持ち上げて近づいてくる。優しい照明の照らす真下に至った彼は、手をこすり合わせながら、僕の顔色を窺った。
「どのような方へのプレゼントで?」
「少し気難しいんですが優しい老人で……。引きこもりがちなのですが、それも恐らく、気遣いが出来るからだと思っています」
「趣味は?」
「趣味は……えっと、すいません」
店長は顎を摩りながら唸り声を上げる。暖炉の中で薪が弾ける音の安心感と、優しい照明の温もりとに照らされて、沈黙する書籍の群れが値踏みするような表情を見せる。僕は若者向けの冒険小説や、青年向けの近代小説、実用書の類を見渡した。
考えてみれば、僕は彼について長年の付き合いの中で何も知ろうとはしなかったかもしれない。そう考えると、途端に不安に駆られて、腕を組み眉を顰める店主に向けて、言葉を続けた。
「その人の部屋には、分厚い本がたくさん並んでいるんです!」
僕は店主を少し責めるように、やや語気を荒げてしまう。それはリスキーな発言だった。もしそれが、難しい参考書の類であったら、店主が取り出すものを素直に受け取るのが良いだろう。一方、そうでなかったとしたら、彼は悲しむかもしれない。
一方で、店主はやっとヒントを得たとばかりに、重たい辞書や、論文集などを持ち寄って、僕の前に並べて見せた。
僕の書いた文章や絵が載った、生物学に関する書籍も当然あった。数式の並んだ本の表紙は、余りにも淡白に文字の羅列だけを表紙に置いている。気が滅入るような神学に関する書籍には、天使の梯子を下ろすその中に聖職者が両手を広げて目を見開いている様が描かれていた。
僕は慎重にそれらの本を精査する。数学の本は良く分からないし、生物学の本を持ち寄っても、何か自分が彼に自慢したいだけのような気になってしまう。だからと言って辞書や神学に関する書籍では、余りにも他人行儀過ぎるだろうか?僕の好きな本を送れば、それは単に図鑑になってしまうだろうし、あの本の群れ、紙の山を見る限りは、それではあまりに味気ないように思えた。
「……もう少し、優しい本はありませんか?」
店主は怪訝そうに眉を持ち上げる。しかし、断る事はせずに、今度は実用書の類を持ち寄った。
独身男性には耳の痛い、モテない理由と言う本があったので、思わず首をかしげる。ラインナップが気に入らないと判断したのか、彼は再び書棚に戻り、あれこれと本を持ち込んだ。
僕はそのうちの一つを手に取る。ほんの些細な幸福について記したもので、幸福を測る事が出来るかどうかについて、記されたものだ。もっとも、それを手に取ったのはその話題よりも、より平和な話題に関する議論-我が国における古典の成り立ちについての記録を記した寄稿文に関心があったからだ。これまでのものと比べて、恐らく読んでいて気難しい顔をしなくて済むだろう、と言う判断だった。
「梱包もお願いできますか?」
僕はそれを店主に渡す。「別料金でも?」と訊ねられたため、素直に頷くと、彼はすぐさまカウンターに戻り、祝福の言葉が記された赤い梱包紙で本を包み始める。それが済むと、緑のリボンで飾り付けを加えられた書籍は、僕に丁寧に渡された。僕は代金を支払い、店主に短く礼を言う。店主は片手を挙げて返事を返してくれた。
「また、いつでもお立ち寄りください」
客としては大歓迎、と言う気持ちの籠った、穏やかな声だった。