転がる卵のサウダージ3
一通りの仕事を終えれば、今度は大家としての集合住宅内での企画について考える時間が来る。こうした企画について具体的に理想を語るのは決まってジェーンで、人間関係について現実的な忠告をするのがフランの役目だった。予算については財布の紐を握っている僕の仕事だったが、結局のところ、そうした役割を厳密に守る場面は多くない。結局、重要なのは、その活動が実際に参加に値するものになってくれるか、どうかだ。
それが、今僕達を悩ませる仕事の一つになっているのは、見限る事の出来ないある人物の誕生日祝いに関するものだからだ。
誕生日を祝うという習慣自体は何処の国、町であっても概ね違いが無いのだが、ことウラジーミルと言う場所においては、一年を無事に生き延びた事がとても重要になっている。と言うのも、現状では、この町は毛皮を獲るための最終生産地であり、危険で極寒の森林の中へと若者が出かけていくために、その死亡率や行方不明率が非常に高いからである。僕も何人も手を振ったきり帰ってこなかった若者を見届けてきただけに、出来るだけ誕生日のお祝いは相手が望む限り盛大に行いたいと考えている。
そして、今回見限る事の出来ないある人物と言うのが、誕生日どころか普段から殆ど誰とも話さない老人で、食器洗いや日雇いの掃除の仕事などで何とか食べて行っている人物なのである。彼の誕生日祝いは依然行ったことがあったが、結局参加してくれるのは僕たち一家だけで、この老人は少しがっかりした様子でもあった。そのため、是非参加してもらいたいのだが、これを強制する事も忍びない。もうこればかりはどうしようもないので、半ば諦めが付いているのだが、問題は一家と共に彼が過ごす時の、彼の掴みどころのなさである。
「結局、誕生日プレゼントは何がいいのかしらね」
フランは片づけをしながら呟く。ジェーンが皿洗いをし、僕が家計簿をつける。会議はそうなって初めて開催される。
「個人的には、食べるのにも苦労しているみたいだし、食べ物がいいと思うんだけど……」
「そう言って去年困らせたのは誰だったかしら?」
フランは呆れたように言い返す。パンを送ればよかったものを、麦を送ってしまったために、却って彼の腰に負担をかけてしまった。老人は足腰を痛めるこのプレゼントに大層苦労したようだ。
「……面目ない。でも、普通の果物や、そう言うものだったら……」
「生活必需品ばかり送っても花がないじゃない?彼は寂しい老後を養ってもらいたいわけではないと思うわ」
フランの台拭きに合わせて筆記具を持ち上げる。暫く手に持ったままの家計簿には、大金ではないが着実に資産が貯まってきている。
「そうは言っても、彼の人となりが良く分からないよ」
「私は何でも、嬉しいですけど、ね」
ジェーンが皿を濯ぎながら答える。フランは僕の手から家計簿を取り上げて目を細める。
「これだけ貯まってるんだったら、別に奮発してもいいんじゃないかしら?」
「そうは言っても老後の事もあるし、僕もいつまでも絵を描いていられるわけではないだろうしなぁ……」
僕は手持ち無沙汰になった手で腕を組む。唸り声に合わせるように水を切る音が響き、木皿同士が擦れあう音が響いた。
「私の年金を使えばいいじゃない。何のために貯めてるのよ」
フランは唇を尖らせる。時々貴族らしい所が垣間見えるのが、実に我が家らしい。
「それはフランの分であって家族の分じゃないから。まだ逃走中の借金も残ってるし……」
「義理堅いだけがいい人の条件じゃないのよ?頭の固い男よねー」
フランは家計簿を僕に返してジェーンに語り掛けた。手を拭ったジェーンは、弾んだ声で答えた。
「エリュド様は、頭の固い、いい人です」
「ははは……。じゃあ、いい人だから、いいプレゼント考えないとね」
「私は本が欲しいわねー」
「若い頃から収入で苦労していると言っていたし、教会に足繁く通っているという話も聞かないし、文字読めないんじゃないかなぁ……」
「あの人は文字読めるし、書けるよ」
若く張りのある、しかし厭世的な声が響く。一同が驚いて声の方を向くと、ピアルが一人カードを構っていた。
「そうなの?教えてくれてありがとう、ピアル」
「何にも知らない癖に……」
彼はそう言って机上に並べていたカードを片付ける。そのまま僕を睨み付け、舌打ちをして部屋を出て行った。
「あっ……。反抗期……だよね?」
もやもやとしながらフランに訊ねると、彼女は彼が置いていったカードを丸ごと一つのケースに仕舞い始めた。
「貴方も始めてみたら?案外楽しいかも知れないわよ?」
フランはカードを一枚てきとうに手に取って見せつけてくる。ローブを身に纏った魔法使いのカードだ。
「ルールも知らないのに突然言われてもなぁ……」
「いつも私が構うと怒るくせに、自分ではちっとも片付けないんだから。ほら、貴方がやれば自然と片付くでしょう?」
「あぁ、要するに楽したいんだね。ピアルにはそう言っておくよ」
家事でも仕事でも、もう少し手伝ってくれると嬉しいんだけどなぁ……。
「とはいえ、文字が読めるなら、本は候補に入れておこうかなっと」
本ならそれなりに高価だし、一生の思い出にもなるだろう。僕は実に気軽な気持ちで、メモを取った。
機械時計の針を見る。均一な時間を刻む時計は、いよいよ闇の深まる頃を指示している。見れば、家事も一通り終わっていた。
「じゃあ、今日はここまで、お休み」
「おやすみなさい」
僕は机を端に寄せ、四人分の布団を敷く。深まる闇を受け入れる支度を整えると、部屋は広々として見えた。