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転がる卵のサウダージ2

 潮を吹き上げる鯨のけたたましい水の音が彼方から聞こえる。潮風のにおいと、海鳥の間抜けな鳴き声。空は決まって不機嫌な曇り模様で、垂れ込める雲の濃い鼠色が海の深い群青を栄えさせる。


 大家としてこの町に住んで暫くすると、僕は道行く人に「皇帝一族の第三皇子」という事でしきりに話しかけられた。そうした挨拶に辟易するほどの時間が経った頃、僕はまたしてもこの肩書で声をかけられた。

 それは、ウラジーミルの小さな大学の研究者で、生物学を専攻する准教授だった。そして、彼は「皇帝一族の第三皇子は生物について造詣が深い」と言う噂を聞いていたため、僕に声をかけたのだという。

 僕は逃避行中の多くの作品を見せながら、その時々の思い出を語った。彼は西方世界の生態系に大いに関心を抱き、僕をその仲間に招き入れてくれたのだった。


 そして、僕は大家としての仕事と同時進行で、生物学者お抱えの生物画家として仕事をするようになった。対価はそれほどではないが、自分の趣味を仕事に出来るのはやはり喜ばしい事で、こうして断崖の上から生物の声を聞き、観察する事の楽しみも増えた。


 今は、もっぱら、前世の自分によく似た動物、シロカラという鳥を模写する事が多い。似ていると言っても姿かたちだけで、彼らは空を飛ぶし、海中を自在に泳いで餌をとる事もない。彼らの特徴は白と黒の体毛が水分を弾く脂で輝いている事で、水中に潜るたびに、波紋に脂が浮くという。どういった形でそういう性質を持つに至ったのかは良くわかっておらず、鳥ではあるが体温調節機能が不完全なのではないか、といった説が有力である。


 鉛筆であたりを書いた後、、ペンで本書きを始める。彼らは人間にそれ程警戒心を抱かない生き物で、中には僕の下に寄ってくる個体もいる。それでも餌をやったり、可愛がったりしないのは、彼らが野生生物として生態系に馴染んでいく事の重要性を知っているからだ。動物を保護する事の本質は、可愛い動物をかわいがるという事ではなく、種として生態系の中にその名を連ねるに相応しい形で育てる事である。人間もそのうちの一つとして、微妙なバランス感覚の中に馴染んでいく事が可能なら望ましい。だから、シロカラの、捕食者であり、被食者でもあるという生態系のバランスを維持するためには、無警戒な彼らを攻撃する事も養う事もするべきではない。少なくとも、今、この生態系が崩れていない限りは。


「……よし」


 僕の周りをよちよちと歩くシロカラは、時折ヘラのような嘴を地面に向けて、岩にこびりついた貝や海藻の類をつまんでいる。一通りの作業が終わったところで、僕は荷物を仕舞う。シロカラは海の方を見て、羽を伸ばし、一度こちらを振り返ってから、助走(?)を付けて飛び立っていった。


 空を旋回するシロカラ達の群れは、小さい者から大きいものまで彼の帰りをしっかりと待ち、そして全員の周りをリーダーが周回したあと、また異なる岩壁の彼方へと飛んでいった。


 僕はその用を見送った後、帰路につこうとして踵を返した。


「……相変わらず動物描いてんだな。親父は」


「ピアル、帰ってたんだね」


 そこには息子が立っていた。まだ顔つきは幼いが、身長も随分伸びた。


「なぁ、親父。やめろよ、そんなの」


 ピアルは僕の抱えたスケッチブックに冷ややかな視線を送る。断崖を波打つ音が僕達の会話を阻む。


「これは仕事でもあるんだ。確かに紙は高いし、インク代だって馬鹿にならないけど……」


「そうじゃねぇって。気持ち悪いの、そう言うのが」


 ピアルは地面に唾を吐き、不機嫌な表情で立ち去った。


「ちょっと、待ってって」


 僕は慌てて彼を追いかける。黒い鞄を携えたピアルは、既に繁華街に向けて駆け下りていった。


 最近、避けられている気がする。僕は頭を掻き、小さなため息をついて、彼の背中を見送った。

 この町は若い人が多い。きっと彼もそう言う所が居心地がよくて、地味な僕の事を良く思っていないのだろう。

 彼の事を束縛するのも良くない。きちんと家に帰ったら、また今日の出来事でも聞いてやろう。そう気を取り直して、僕は斜面を転ばないようにゆっくりと下りて行った。



 自宅に帰ると、きっちりと揃えて置かれた外行き用のヒールが、フランの帰宅を教えてくれた。僕は窮屈な革靴を脱ぎ、中履きに履き替える。僕達はこうした文化を本来持っていなかったが、僕が濡れた土を踏む機会が増えてからは、ジェーンの掃除を楽にするために、靴を履き替えるようになっていた。


「浮かない顔ね、エルド」


「フラン、ただいま」


 僕が靴についた土を落としていると、フランが平たい中履きでリビングから顔を覗かせた。僕がスケッチブックを脇に抱えなおすと、彼女は僕のインク壺を手に取って部屋に戻っていく。


 リビングに入り気が抜けると、自然と溜息が漏れる。彼女は改めて、本の頁をめくり始めたらしい。


「なに、先生と喧嘩でもしたの?」


「いや、最近、ピアルに避けられている気がして……。僕が外出がちな事怒っているのかな」


 写生に入ると、どうしても家の仕事がおろそかになる。大家としては掃除もなるべくジェーンに任せきりにはしたくないし、フランにもたまには料理でも振る舞ってあげたい。写生の間は無心に近いため、特に気にも留めないのだが、いざ帰ったりペンを置くと、家族が今何をしているのか、気になってしまう。

 項垂れる僕とは対照的に、フランはふっと吹きだした。馬鹿にされた気がして顔を上げると、持ち上がった口元を抑えたフランが横目でこちらを見ていた。


「それはね、反抗期っていうのよ」


「反抗期。反抗期!」


 僕は思わず復唱する。人間には、成長の過程で親や保護者から何となく離れたいと感じる、反抗期が存在する。その言葉を聞いた途端、ピアルが既にそうした適齢期であることに思い至った。


「そっかぁ……。反抗期かぁ……!」


 ピアルもそんな年になったかぁ!


「何だか嬉しそうね。忙しい人」


 そう言うフランも、本越しに顔を綻ばせているのが見えた。

本日の生物……シロカラ

 体長70cmから80cm程度の海鳥であり、寒冷地域に多く生息する。地域や植生ごとに異なる食性を有し、それに伴って、嘴に若干の違いがあるという特徴を持つ。


 人間に対する警戒心が薄く、体毛は水分を弾く脂に覆われている。

 幾つかのつがいが集団でコロニーを形成し、各々の家族が食事を終えるまで他の家族が雛鳥の世話をする。家族の中でももっとも体が大きい者がリーダーとなり、一度離れた家族がコロニーに戻ると、逸れたものがないかを確認したうえで、異なる家族の食事場へと移動する。

 彼らは多くの場合天敵に対して無力であるが、天敵に襲われて一度家族が離散しても同じ家族が再びコロニーを形成するという目撃例が多く、非常にコロニー間の団結力が強い生物とされている。

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