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転がる卵のサウダージ1

 一人目は流産だった。二人目は病死だった。

 その度に僕は憔悴して、今だに墓前に立つと涙が滲んでしまう。

 そういう時にフランの強さは心強かった。彼女だって辛いはずなのに、僕の背中をそっと撫でながら、幸せな命だったと言ってくれた。僕は今でも彼らの事を引きずっているが、彼女はきちんと前を向いてくれていて、それだけで、なんとか毎日を過ごしていける。


 それに、今は二人じゃなくて三人で、分かち合っていけるんだ。


 平たい墓石に花を手向ける。二人分の百合は淡く赤がかった白色で、花びらに行儀良さげにと斑点が並んでいる。


 ウラジーミルの秋風はエストーラの木枯らしの如く凍てついて、深くコートの襟に顔を埋めて手を合わせる。


 草の匂いとともに香る潮風、ざぁ、という耳音をくすぐるような音と、鳥たちの囀り。高くて優しい音に囲まれて、生まれてこれなかった僕の大切なものたちに思いを伝えた。


 藁を敷かれた上に倒れた楕円の石を縦に直して、優しくこれを撫でる。生まれてこられなかった僕の大切なものの、始まりだ。


 空は高く青く澄んでいて、久しぶりに訪れた灰色の雲の切れ間から太陽が恥ずかしげに顔を覗かせる。心なしかエストーラで見たそれよりも低い位置にある太陽の光線が、冷えた頬を優しく温めてくれる。


「エルド、いたのね」


「フラン……。うん」


 僕が振り返ると、髪を束ねたフランが目を細めて笑っていた。落ち着いた白い厚手のガウンに、紺のシャツとロングスカートという出で立ちで、目尻を少しだけ濡らしていた。


 立ち上がると、間近にあった草の音が遠ざかる。音のない世界に二人で取り残されたような錯覚に陥った。


「少しだけ、手を合わせてもいいかしら」


 僕は道を開ける。彼女が屈み込むと、石鹸のような匂いが漂った。


 濡れた墓石の上を鮮やかな青が通り過ぎる。寒色に囲まれた灰色のモニュメントは言葉もかけずに佇んでいる。


 フランの頭上を通り過ぎる景色と、目前の残酷な現実とに途方も無い思いが駆け巡る。


「幸せになる権利は誰にでもあるわ。だって、権利など無いんだもの」


 フランは立ち上がり、「行きましょう」と短く続ける。僕は彼女の後を追いかけた。

 心地よい潮風が、二人の間を通り抜けて行った。



 はるか文明の彼方、北の果てムスコール大公国の東の果て、東征の名を冠するウラジーミルは静寂と海と靄に包まれた港町である。

 海を背に臨み、東方世界に森を隔てて尻に敷くこの町は、不思議な静寂に満たされていた。

 この町に訪れた者は皆、毛皮と陶磁の幻に取り憑かれる。ウラジーミルの公共住宅には、そうしたムスコール大公国の富を担う人々、とりわけ下層の人々が寄り集まっている。


 僕が管理をする第四集合住宅もまた、そうした人々が集っている。


「管理人さんよ、今日は早いおかえりですねぇ」


「ん、うーん。フランに捕まっちゃってね」


「はっは、それは遅い時に使う言い回しでさぁ」


 住民は比較的若い人が多い。僕が来た時はもっと年上もいたが、その多くは金を積めるだけ積み、犬橇に乗って首都へと旅立っていくか、極寒の雪の上に突っ伏した。


 ムスコール大公国の大きな動きと言えば、マスメディアの発展と浸透、それに伴う投票制度・議会制度の変化だ。これまで貴族だけに限定されてきた貴族院議会を、有権者の支持を集める有力な公国民にまで拡大させ、有力者や大商人を中心とする民衆院との合議体となる枢密院での立案の幅を広げる事により、広く国民に政治参加を拡大する事を可能とした。貴族院議会は相変わらず立法の拒否権を持つので、政治を牛耳っている事に変わりはないが、その中に地方の有力者が介入する余地が生まれたことで、結果的に中産階級の意見が通りやすくなった。また、枢密院での決定を、公国基本法だけでなく刑法にまで拡大させたことで、所謂貴族特権でもあった「刑罰による威圧」が難しくなった。この変化は現状それ程有効に機能しているとは言えないが(公国基本法の平等原則や司法を司る審問院の中心が聖職者と有力商人などであったため、それらが貴族を監視する役割を担ってきたため)、貴族以外による民衆優位の刑法改正が通る可能性はまだあるだろう。

 投票制度は大きく変わった。高額納税者を中心とした制限選挙制を解体し、満25歳以上の男性と高額納税者の女性を追加した選挙制度が発布され、最初の投票では多くの有権者が投票所に押し寄せる事態となった。大福祉国家が新たに目指す指針は中産階級の収入増による税収の増加であると、宰相オデールによって宣言された事で、今後の政治の中心は貴族院から徐々に民衆院へと移っていく事になるだろう。


 そして、この投票制度を支える一つの役割を担ったのが、ムスコール大公国全域に広がった、プロアニア王国流の新聞社である。マスメディア面ではやや遅れを取っていたムスコール大公国は、プロアニアが持つこの物珍しい娯楽をしっかりと学び我が物とする事ができた。これにより、地域別の情報誌が全国的な政治の動きも逐一記載する新聞社となり、より大規模な選挙活動が可能となった。そして、選挙活動の需要が増加するとともに、マスメディアの重要性が増大し、有産市民の出資によって、プロアニアの新聞社と類似のメディアが全国規模で発生する事になった。


 もっとも、これらの変化は僕にとっては些細なものに過ぎない。ウラジーミルはそのような政治戦とは無縁の土地であり、出稼ぎ労働者や行商人達による慣習法ほどは、国家規模の政治に影響されることは無い。ある意味では僕の理想郷だと言える。寧ろ国家にとっては些細な問題が、僕にとって非常に重大な懸念事項になってしまっていた。


「そう言えば、管理人さん、『あの人』、どうなったんだよ?」


 空の革袋を大量にこさえた彼は、依頼主の期待に応じる毛皮を獲得するために猟銃を肩にかけている。

 僕は首を横に振る。彼は肩を竦めてみせた。


「相変わらず、中々つかみどころがない人だよ……」


「管理人さんも苦労人だな。独り身じゃあ分からんが、奥さんにも尻に敷かれているようだし」


「はは……面目ない」


 こういう会話が出来るところは、この国の良さだと思う。故郷なら、妻に尻に敷かれていると知れたら、家に穴が開くほど石を投げられる事だろう。強い男が正義の社会ではないからこそ、管理人室に僕の居場所があるのだ。

 改めて、帰る場所のない僕にこの役目を与えてくれたヤーキム卿には感謝しなければならない。彼は自慢の機械時計を懐から取り出し、「おっとそろそろ……」と言って片手を挙げる。僕も耳の横で小さく手を振り、彼の背中を見送る。


 こうして見送った背中の多くが、帰らなかった事を思い、僕は首を擡げた。睫毛にかかった霜を払う。はっきりとしない曖昧な天気は、彼の行く先を不透明にさせる。

 不安な心持を誤魔化すために、ポケットに手を入れる。熱を帯びた袋が手に触れる。砂鉄が擦れるような音と、優しい温度がかじかんだ手を温める。微かなぬくもりの正体は懐炉であり、雪と親しんできたこの国で最も普及した道具の一つである。僕は静かに目を瞑り、空に向かって白い息を吐いた。


「エリュドさま、裏のお掃除、終わりました」


 僕のでこ一つ分体がこちらに近づいてくる。僕は静かに顔を玄関に向け、そして、すっかり聞きなれた訛りに安堵の息を吐く。肌を掠める暖かな蒸気は、渇いた肌に纏わりつくようだ。


「ありがとう。掃除終わったら海の方に行くから、少し留守は任せるね、ジェーン」


「はぁい。お任せください!」


 よく響く声で答えた彼女は、調子のずれた鼻歌を歌いながら、管理人室へ入っていく。管理人室の中では、いつものように常緑の植物と、小さな鳥の縫いぐるみが外を覗き込んでいた。

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