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side:Leopold

  穏やかな夜のひと時は、皇帝レーオポルトにとっての憩いの時間だった。

 閑居を嫌う聖職者らしく、彼は還俗した後もこの時間を報告書の読み込みや、聖典の暗唱や、讃美歌の作曲などに使う。深夜の静けさはそうした行いを助けてくれる。少なくとも、彼はその日、その直前まで、そのような望むべき時間を過ごしていた。


 穏やかな聖務の時、レーオポルトは傍らに常に聖典を置く。重厚な鍵付き聖典は手書きの宝石本で、派手好きではないこの皇帝が持つ数少ない豪奢な「私物」であった。


 宝石本に手を乗せて、紅茶を啜る彼が、騒々しい足音―それはかつて聞いた軍靴の足音に似たものだった‐に感づいたとき、彼は既にその時が来たのだ、と確信を抱いた。


 自分の事を疎ましく思うものは少なくない。敬虔な信仰は時として対立を生むうえ、家族の樹は枯死寸前の代物となっている今、エルドの一件が起こってしまった。この第三子が自分と似ていたことから、貴族社会に染まらずにいてくれることに陰ながら安堵していた彼にとっては、この一件の為に負った傷は非常に大きなものだった。


 聖典の表紙を撫でる。輝く宝飾品が、皮の表紙に色どりを添える。俗世に染まった二人の子供のいずれかに命を奪われるとしても、彼は閑居をなくすための努力を重ねた。


 燻蒸の芳しさと、紅茶の渋い苦みとが、彼の思考を鮮明にさせる。手を置いた聖典を再び開き、信仰の証を付けた首飾りをもう一つの手で掴んだ彼は、でこをその証に当て、何度も、何度も、聞きなれた自分の声で神の言葉を繰り返した。


 やがて、足音が近づくと、燻蒸によって薄く白んだ空気に自然と咳が出る。信仰の証の跡がでこに残る程押し当てて暗唱すると、乱暴に扉を開く者が、彼の聖務の時間を取り上げた。


 レーオポルトは静かに首を上げる。相手に振り向く事はせずに、鼻から息を吐いた。


「陛下、申し訳ございません」


「……イェンスか。まずは歓迎しよう。さぁ、ここに座ると良い」


 レーオポルトは静かに椅子を引く。イェンスはその場に立ち竦んだまま、半ば過呼吸気味になった呼吸を整えた。


「陛下……。貴方の命を頂戴しに来ました。どうか、私めの為に、その首を下ろしてください」


 泳いだイェンスの瞳が、澄んだレーオポルトの瞳に映る。レーオポルトは静かに溜息を吐くと、聖典を閉ざし、そして自分の前に立つ過呼吸気味の男の瞳に向けて顔を持ち上げた。


「好きにすると良い。君が選んだのならばね」


「陛下……」


 イェンスは躊躇いがちに背後の軍勢を一瞥する。胸元の信仰の証を静かにつかむと、彼はそのままレーオポルトの方を指さした。


「陛下と、少し話がしたいのだ。もう少しだけ、待ってほしい」


 攻撃の構えに入っていた兵士達が武器を下ろす。静まり返った室内で、武具が床を叩く音が響いた。

 一拍置き、イェンスは振り返る。目の前には、彼のもっとも長く仕えた主人の姿があった。


「イェンス。君にはいつも世話をかけたな。私が政治に無知なばかりに、散々君に迷惑をかけてしまったことを、まずは謝罪し、そして礼を言おう」


「とんでもございません。陛下は、私の苦しみをいつも支えて下さいました。その貴方へ対する忠義を見せられない私は、きっと、地獄へ落ちるでしょう」


「そうだな……。それでも、私は君と過ごした時間を基に、神の御前で君を弁護する事を誓おう。最後まで私を支えた君を」


 レーオポルトは口角を持ち上げる。イェンスは唾を呑み、そして、恐る恐る隣の席に着いた。


 一拍を置いて、レーオポルトはイェンスに紅茶を注いでやり、聖典に手を置いて静かに目を閉ざした。


 沈黙に耐えかねたのはイェンスであった。荒々しい息を立て、武器を持ったまま静止する兵士達を上目遣いで見つめる。


「命が惜しいのは皆同じだ。神が与えた恩寵だからね。私は君を咎めたりはせんよ」


「陛下、私は……貴方ほど穏やかな皇帝を見たことがございません」


 そう言ってイェンスが振り返った時、レーオポルトの首筋に鉄の刃が突き刺さっていた。首筋にから刃を伝って滴り落ちる赤々とした雫が、宝石本の上に一滴、また一滴と落ちる。


「あ……あ……」


 崩れ落ちたレーオポルトを見下ろしながら、イェンスは思わず後ずさりする。


 この会話を通して、イェンスは少しでも彼が生きている時間を引き延ばそうとした。これは、彼が時折後ろめたさを感じるような裏切りに対して使う手法だった。しかし、レーオポルトは今、目を見開き、半分だけ繋がれた首から黒い血を流している。イェンスの唯一の良心の呵責は、呆気なく奪い去られてしまった。


「さぁ、今度は君の番だ。君が何を為すべきか、懸命な判断を期待しているよ」


 シーグルスはイェンスの足元に斧を放り投げた。そこには生々しい血痕が残っている。赤いというよりはもはや黒い、錆びつき始めた斧には、慟哭に揺れるイェンスの瞳があり、そして、シーグルスの冷たい笑みがあった。


 ‐いつかこういう日が来るかもしれない。その時には、私を潔く殺しても良い。忠義とは、主なるもの、それも全能の主なるものに向けられるべきだ。君に主がそう囁くならば、そうすると良い‐


 レーオポルトの骸が以前そう呟いていたのが、イェンスの脳裏をよぎる。彼は揺れる瞳を一心に一つのものに向け、重厚な斧を持ち上げる。文官として生きてきたイェンスにとって、それは余りにも重いもののように思われた。


「さぁ、はやく!」


 シーグルスが捲し立てる。その意図をイェンスは知っていた。まだ口をパクパクと開けているうちに首を切れ、と。シーグルスの手柄(せきにん)にするな、と喚いているのだ。


 ‐私の家族の樹を守るのは、君に違いない、イェンス‐


「あがぁぁぁぁぁ!」


 イェンスは乱暴に斧を振りかぶった。首に折角できた脊髄までの傷の少し上、未だ無傷なまま血を吸い込むべっとりとした首に斧が命中する。彼はそこから何度も、何度も乱暴に斧を振りかざす。視界が眩んでもはや自分が何処を、或いは何を切っているのかも分からない状態だった。


 ごり、ごりという刃の削れる音がすると、イェンスは振りかざした斧をそのまま背中の上で落とした。言葉を失った彼の主人が、ぐちゃぐちゃになった肉片の欠片を幾つも首から吐き出していた。


「あ……あ……。陛下……?」


 突然落とした筈の斧が引き上げられて彼の手元に戻ってくる。ひとりでに振り下ろされた斧は、正確にレーオポルトの首を断ち切った。


 もはや鮮血も顔を覗かせない。滴り落ちる汗が放り出された血濡れの宝石本の上に落ちる。

 神を汚した、イェンスがそう自覚すると同時に、シーグルスはゆっくりとした調子で拍手をした。


「閣下、貴方は素晴らしい働きをしましたね。「暴君を討った」功績をたたえ、貴方を宰相に任命しましょう」


 イェンスは膝から崩れ落ち、放心状態のまま宝石本に触れた。彼の唯一の「遺品」。イェンスはそれを抱き寄せ、首を持ち上げるシーグルスの靴の真上に首を垂れた。


 彼の鮮血がイェンスの頭を濡らす。宝石本を強く握りしめ、彼は込み上げてくる思いに嗚咽を漏らした。

 帝国のベルクートがはためく。頭をなくしたベルクートが、苦しそうに舌を吐き出していた。

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