君を待つ
―――――カラカラリ
「いらっしゃいませ。」
「やあ、久しぶり。」
夜も良い頃合いに更け、どこかまったりとした空気が漂い始める頃。彼はやってきた。
細身のスーツにソリッドタイ。スッキリと誠実な印象を覚える着こなしに、ちょっとダボついた茶色のロングコート。どこかアンバランスだが、それがかえって親しみを感じる。彼女はそんな雰囲気がたまらなく好きだった。
「お久しぶり。いつ以来かしら?」
「一か月と少し、といったところかな?熱燗貰える?」
「はい、熱燗ね。銘柄はいつもでいいわよね。そっか、そのぐらいしか経っていないのね。もう少し間が空いているように感じるわ。」
おしぼりとお通しを出しながら、熱燗とだし巻き卵の準備を始める。彼女の自慢料理の1つであるだし巻き卵。彼は店に来た時に必ず熱燗と共に頼むのだ。もうだいぶ前から注文しなくても作り始めてしまう。
とはいえ、店にはまだ他の客もいる。彼ばかりにも構っておれず、注文の品を出したらすぐに離れあちらこちらを歩き回る。ちらりと盗み見ると笑顔でだし巻き卵を頬張ってくれていた。
やがて1人、また1人と席を立つ。
最後の1人を見送り、姿が見えなくなったのを確認すると、彼女自身も驚くほど素早く、しかしできるだけ自然に見えるように暖簾をしまう。
「あれ?もうしまっちゃうの?」
「ええ、今日はこれでおしまい。今日は少し疲れちゃって。」
熱燗をもう2つ用意を用意して彼の隣に腰をおろす。ほんの少しだけ、彼の方に椅子を寄せた。
目にイタズラな光が宿る。
「さ、飲みましょう?」
お猪口に酒をゆっくり注ぐ、彼の匂いと酒の香りが混じって何とも言えない匂いが鼻孔をくすぐる。これだけでひどく酔ってしまいそうになる。
「これはこれは…では麗しの君よ、返杯を受け取ってくれますかな?」
「ええ、喜んで。」
冗談めかしたやり取りが心地いい。こんなこと昔の時分にしようものなら、どんな報復に出ていたか。
そのまま目が合って見つめ合い、どちらからともなく笑った。
「ははは、こんなやりとりができるなんて、君も丸くなったね。」
「あ、それ言っちゃう?そういうあんたも随分と度胸がついたじゃない?」
「まあ、色々鍛えられたからね。」
話は面白いように弾む。お互いの近況報告から風のうわさ、店に来る酔っ払いの愚痴、時事問題、近所の野良猫がうるさい。などなど、話題が尽きることはない。
「―そういえば、その着物新しく買ったの?」
「ええ、ちょっと冒険してみたのよ?似合っているかしら?」
白地に大きめの青と赤の矢羽風の絣柄。少し個性的だが軽やかなリズム感があって、一目見て気に入ってしまった着物だ。
「うん、爽やかでとてもいいよ。よく似合っている。」
「本当?嬉しい!」
顔が熱い。たぶん、酔いだけではないだろうと、案外冷静に考察をする。
(そろそろ、頃合いだよね。)
「ねえ、実はさ。もう1つ新調してみたのがあるの!」
「へえ、どんなの買ったの?」
そっと彼の手を取って、衿本に差し込む。
彼女には息をのむ音が、はっきりと聞こえた気がした。
「ねぇ…二階へ行きましょう?じっくり見せてあげる。」
上目遣いで、潤んだ瞳を彼へと向ける。
しばしの無音。
しかし、やがてゆっくり立ち上がると、2つの影は1つに重なった。
「…またやってしまった。」
「ふふ、背徳の蜜の味はいかがだったかしら?」
「………たまらなく、甘露だった。」
事が終わり、夢から覚める。そのたびにこんなやり取りを繰り返す。
それが2人の、暗黙の了解のようになっていた。
「…それで?今日はどうしたの?」
「…実はさ―――。」
そうして、本題である愚痴に耳を傾ける。
彼は、この幼馴染はいつもそうなのだ。
どこか飄々としていながら、決して折れない芯のあると周りから尊敬されるこの男は、実の所はそう見せているだけ。根っこが酷く脆いくせに、臆病者で誰も信用できない、信用しようともしない。愛する妻でさえも。
しかし、彼もここでは、彼女の前でだけは、本当の自分をさらけ出すことが出来る。
彼女だけが、どんなことがあっても味方でいてくれる。
(分かっているんだけどね。こんな関係は不健全だって。)
1人の少女が、いや女性が頭をよぎる。天真爛漫で、太陽のような笑顔が素敵な彼女のことが。
しかし、この関係を彼女から終わらせることは考えられなかった。
自分のことを頼ってくる彼が、自分には全てを見せてくれる彼が、たまらなくかわいくって好きだった。
ダメだって分かっているのに、この背徳感が彼女に仄暗い喜びと生きる糧を与えてくれるのだ。
「―――ねえ?聞いている?」
「…ごめんなさい、またちょっとイキかけちゃって。」
「…今日のはそんなによかったの?」
「ええ…たまらなく興奮したわ。」
「………。」
「え?ちょっと?」
「そんなこと言われて、我慢できるわけないだろ。」
「いや、だから今イったばっかりだからダメッ………あっ…。」
目を覚ましたら、彼は居なくなっていた。
たまらなく、むなしかった。