「序」
昔、牧師をやっていた父に言われた。
「得体の知れないモノ、よくわからないモノへの恐怖を忘れてはいけない。」
私の母は、所謂「霊媒体質」というやつで、牧師の父との出会いも、家族旅行先で悪霊に取り憑かれた母が帰宅直後に「発作」を起こし、たまたま近くにあった教会に担ぎ込まれたのがきっかけだったのだという。
牧師の父は、私には何もできないと母の両親、つまり私の祖父母に言ったが祖父母はパニックを起こしており話にならず、結局大雨の中父は高校時代の友人が継いでいる寺に母を連れて行ったのだという。
夜明けまでつきっきりで母の看病をし続けた父の真摯な態度に、祖父母はいたく感銘を受け、母なんかは恋愛経験ゼロだったからか、父にゾッコンだったのだという。
などと、どうでもいい両親の馴れ初めのことや父の言葉なんかを思い出しながら、私、信濃 翔子は高校で保健の授業を受けていた。
5限目、昼食後の授業は眠くて仕方なかったが、担当の体育教師は居眠りする生徒は容赦なく叱責するタイプの先生なので一応真面目に聞くふりをしてやっている。
男女が〜だの、セックスが〜だのと、女子校の授業で話したところで、私達生徒の大半には直ちには関係のない事なので、真面目に聞く気すら起こらない。
放課後は何しようか、などと考えながら窓の外の空を見る、相変わらずの曇り空である。
クラブ活動も特にしていない私は、放課後は特に何をすることもなく、いつも駅前を適当にぶらぶらほっつき歩いて、気が済んだら自宅に帰っている。
放課後、中学からの友達の相田 優子がまたしつこくクラブへの勧誘をしてきた。
「えーっ、翔子も絶対楽しめるってー、帰宅部より絶対楽しいし、先輩もみんな優しい人ばっかりだしー、」
「いや、別にクラブ活動自体が嫌なんじゃないの。私はあんたの入ってるクラブが嫌なだけ。」
「えーーー。ひどーーい。」
優子は、別に落ち込んだ風でもなくふくれっ面を作って、机に置いてあるカバンを持ち上げると、再び私のほうにくるりとむきなおり、
「まっ。いつでも入部お待ちしてるから。翔子ならいつでも大歓迎だから。じゃ、私はこれで」
クラブ活動の時間なのだろう、可愛らしく敬礼のポーズを作ってから、優子はそそくさと教室を出て行った。
優子の所属しているクラブは、オカルトやらホラー好きが集まるオカルトクラブというやつで、優子自身もオカルトマニア(中学の時なんかは何回もコックリさんに誘われたりした)であったので、高校に入学し、部活案内の掲示板を初めて見たときには、彼女の入部先はもうすでに決まっていたのだ。
いつも思うことなのだが、別にオカルトやホラーが好きなのは全然自由だと思うし、可愛いらしいルックスに似合わぬ趣味で、そんな優子が好きでもあった。しかし、それに私を巻き込むのだけは勘弁して欲しかった。
ゴールデンウィークも部員の皆とどこかに合宿へ行ったのだとか、行った先で何をしたか、どんなスポットへ行ったかなど、興味もないし聞きたくもなかったが、優子はそんな私の事などお構いなしで、ベラベラと話し続けるのだ。
私はオカルト、心霊、その他の類が大嫌いだった。私は幽霊なんか見たこともないし見たいと思ったこともない、それというのもやはり私の心の一番奥底に残っている母に関連する様々な思い出のせいだろう。
母は本物の霊媒体質というやつらしかった、しかも相当に霊感の強いタイプらしく、道行く人々の群れを一目見ただけでは、どれが生きている人間で、どれがこの世のものではない者なのかという判別も難しかったのだという。
霊感が強いなら、幽霊なら1発でわかるだろうと思う人もいるかもしれないが逆である。
霊感が強い人は、霊を感じる能力が強すぎる故に視覚という感覚が、生きている人間も、幽霊も等しく感じ取ってしまう。視覚だけでなく、嗅覚も聴覚も同じように感じ取る、まるで生きている人間の事を見るように普通に幽霊の事も見えてしまうのだという、なんの違和感もなく。
半端に力がある方がまだ良いのだと父は言っていた。
父も母ほどではないらしいが、霊感というものがあるらしく(職業柄あまりそういう話をしたがらないのだが)、父には見える時はハッキリそれは幽霊に見えるのだという。
母は買い物に行った先のデパートでも、よく誰もいないのに道を譲ったりしていたし、しょっちゅう急ブレーキをかけるので車の運転もまともに出来なかった。
そしてついには気が狂い、苦しい入院生活が続き、母の発狂を苦にした父は、ある日2人で共にこの世を去ったのだ。当時小学6年だった私を残して。
そんな事があったせいで、幼くして私の心霊嫌いは出来上がっていた。それに幸い、私には両親のような「能力」は一切遺伝していなかった。
そんな私を容赦なくオカルトの世界に引き込もうとするのが、中学時代からの唯一の親友である相田 優子なのだ。
母方の祖父母に引き取られた私は、小学校を卒業する直前という最悪のタイミングで転校したせいで、中学に上がって、同じように中学に入学した直後というタイミングで転校してきた優子以外の友人ができなかったのだ。
優子にはその人柄とかなりの美少女と言って差し支えのない容姿のせいか、大量に友人がいるのだが、それでも昼食を食べる時も、遊びに行く時も、何をするにもいつも私といてくれた。
だから私は自分のちっぽけな好き嫌いのせいでこの親友を失いたくなかった。だから嫌々ではあったがオカルト話には付き合ってやっていた。
そんな親友の様子がおかしくなり始めたのは、6月に入った直後のことだった。
「シナノーォ、お前相田からなんか聞いてないのかー?」
朝のホームルームの後職員室に呼び出され、生徒よりも眠そうな顔をした担任が私に聞いてきた。
5月末から6月頭までの一週間ほど、優子は学校を欠席していた。
両親は共働きで朝早く、最初の2日ぐらいは自分自身で学校に「病欠します」と電話してきたらしいのだが、それもすぐに無断欠席になり、家に電話をかけても誰も出ない、両親に電話をかけてもやはり出ない、ということで職員の間では少し問題視されつつあるようだった。
私なんかは正直とても心配していたが、優子の家に行くことはためらわれた。
中学の頃、一度優子の家に連れて行ってよと頼んだことがあったが、
「ごめんだけど、翔子でも家には上げられないの、本当にごめん」
と、必死に謝られたので、何かを察してしまって、お互いに家庭の話はしない事にしていたのだった。
私の脳裏にここ数日間ずっと浮かんでいたのは、「虐待」という不吉な二文字だった。
そんなこと想像するのもおぞましいことだが、家の話をした時のあの優子の表情と、今まで学校を休むことなどなかった優子の、この連続突然の無断欠席のせいで、どうしても私の頭には悪い想像しか浮かばなかったのだ。
「先生、本当に優子の親は電話に出られないだけなんでしょうか?普通娘の学校から連続で何回も着信が入っていたらかけ直したりするんじゃないでしょうか?」
担任は目をこすりながら、私からデスクに向き直り、コーヒーをすする。
「ああ、俺もそれは気になってる。だからと言って俺、いや教師にもできることとできないことがある。まぁ流石にそろそろ児童相談所に連絡なり何なりのアクションを起こすべきではあるとは思うが。」
心配している風も微塵に感じられないような気だるそうな感じで、担任は教科書と書類を準備し始めた。
絶対にこいつはなにもしてくれない。そう思った。
その日の放課後、私が向かったのは優子の家。
ではなく、優子の所属しているオカルトクラブの部室だった。
まさかこんな風にこの部室に来ることになるとは。
優子に何度誘われても、見学すら行かなかった
オカルトクラブ、その部室となっている少人数教室の引き戸をノックすると。
「どうぞ。」
という覇気のない声が返ってきた。
立て付けの悪い引き戸をガタガタと音を立てながら開けると、中では3人の女子生徒が、机を合わせてその上に幾つかの本を広げていた。
「見学かしら?」
上級生らしい大人びた雰囲気の生徒が立ち上がり、萎縮している私に近寄る。
「あの、あ、あの。」
情けないことなのだが私はこういうとき本当にダメダメなのである。
「あの、い、一年の、相田 優子の友人です。優子が最近」
と、そこまで一気にまくし立てた私の唇に、大人っぽい生徒が人差し指を当て、私は押し黙った。
少しドキドキしてしまったのだ。
「この教室ではその名前は使わないであげてほしいわ。」
「はい?」
いきなり訳のわからないことを言われたので、間の抜けた返事をしてしまった。
優子のことを話すのはタブーなのか?やはり何か関係があるのでは、などと考えていると。
「イミナって知ってる?」
オトナ系女子は言った。
「イミナ?はぁ、聞いたことないです。」
「本名の事よ。」
「はぁ。」
「名前ってね、とても不思議な力があるのよ。それは人の強みであり、同時に弱みでもある。」
黒板にチョークで「忌み名」という漢字を書きながら、入り口に突っ立ったままで硬直している私に向き直る。
何故だろうか、先ほどからこの人の言葉や喋り方、動きの1つ1つに、私はどこか心地よさに近い何かを感じている。
「だからね、ウチではまず入部した子にはアザナをつけることにしてるの。ネットでいうハンドルネームみたいなものよ。」
「どうしてわざわざそんな。」
「だって、世界中様々な国の、様々な時代の呪術や黒魔術の類に触れ、実践するんですもの。本名は隠したほうがいいわ。」
なんだその謎理論は。などと考えていると、
「本名のまま闇に触れるのって、実は本当に危険なのよ。テレビに出てるような霊能者だって全員偽名でしょう?」
いやそれはもはや芸名であって、別にそんな霊的な意味があって偽名を使っているわけではないだろう。などと反論しても意味のないことなのはわかっていたしそんな勇気もないのでしなかった。
「そ、それじゃあの子のことをなんと呼べば?」
「そうねぇ。この部室内では、『ヒシカワ』って呼んであげて、この『場』は危険だから。」
先ほどから息をするようにオカルティックな会話を続けるこのオトナ系女子に、私は嫌悪感と、やはり何か惹かれるものの両方を感じていた。
「はぁ。じゃあヒシカワについて聞いていいですか?」
「ええ、答えられる範囲なら。」
「あの、ヒシカワが最近ずっと学校に来てないのですが。何かご存じないでしょうか?」
「あら、やっぱり彼女、学校休んでたのね。」
驚いた風でもなくオトナ系女子はきれいな指先を眺めながら言った。
「ご存じ、というか、心当たりならあるわよ?でも、教えていいのかしらね・・・」
などとクスクス笑いながらオトナ系女子は後ろの2人の女子生徒の方に振り返った。
2人の方は私には目もくれずに何かの本を黙々と呼んでいる。
「いや、知っているなら教えていただけないでしょうか?私には・・・こんな言い方もあれですけど、私には唯一の親友なんです。彼女が心配なんです。」
すると、オトナ系女子の顔にはなぜか好奇の表情が浮かび、私のことをまじまじと見つめてきた。
「あら、すると貴方が彼女の言っていたお友達?彼女も唯一の親友だって言っていたわ。貴方・・・」
何かを言いかけるオトナ系女子を遮って私は苛立ちを隠すのもやめて問いただした。
「答えてください。ヒシカワはどこにいるんです?貴方たちの活動絡みでトラブったりしてるんですか?」
依然、オトナ系女子は私をじろじろ見ながらニヤニヤ笑っている。
艶っぽい笑顔だった。
「トラブルに巻き込まれているわけではないのよ。ただ少し時間が彼女には必要なのよ。」
やはりこの女の言うことは要領を得ない。イかれているとまでは言わないが、どこか頭のネジが外れているのは確かだ。
「そうやって勿体ぶらずにはいられないのでしょうか?それともオカルトなんかやってる人は怪談話のしすぎでそんなしゃべり方がデフォルトになっちゃってるんでしょうか?頼みますから優子の」
「ヒシカ..」
「優子の居場所を教えてください。教えてもらえないのなら先生に相談します。クラブ活動関連で先輩とトラブってるらしいって、先輩方が優子の居場所を隠してるって。」
一気にまくし立てたので、息が上がっていた。
「ずいぶんな言われようねぇ……でも強い人は好きよ。」
などと尚も私の神経を逆なでしてくるので私ももう我慢の限界が来ていた。
「もう結構です!」
そう言い、引き戸をオトナ系女子の眼の前で思いっきり閉めてやると、私は宣言通り職員室に向かって歩き始めた。
すると、後ろで引き戸が開き、
「彼女は、今頃駅前の商店街にいるはずよ。気をつけてね。」
それだけを、柔らかく心地の良い声が告げた。
私は振り返ることもなく、急いで学校を後にした。
自転車で駅に向かう途中、彼女が最後につぶやいた「気をつけてね」という言葉がずっと気になっていた。
何を気をつけろというのか、何に気をつけろというのか。
そんなことはどうでもよかった。一週間も学校を休み、失踪同然の親友の居場所がわかったのだ。今はそんなことを考えているべきではない、今案じるべきは親友の安否だ。
駅前の商店街、出口の向かいにある電気屋の入ったビルの麓を入り口としたアーケードを、優子の名を呼びながら探し回った。
程なくして、私はアーケードの中にある駐輪場付近で優子らしき女子高生の後ろ姿を発見し
た。いや、間違いない、優子だった。
肩のあたりでふわりと膨らんだ柔らかそうな焦げ茶色の髪の毛、服装はというと、驚くべきことに優子は高校の制服を着ている。そして、彼女の手もつ学生カバンは、何か大きなものでも入れているのか歪な形に膨らんでいた。
一週間近く学校には通っていないのに、なぜ制服を着ている?カバンには何が入っている?
そんな私の疑問は、優子がいきなりこちらを振り向いたことによりかき消された、いや、いきなり優子がこちらを向いたことにはさほど驚かなかった、驚いたのは、
「優子!おーい!優子!」
必死に呼びかける私、2人の距離は10メートルほどだった、しかし優子は私に目を合わせることも、私の顔を見ることもなく、まるでそこに私がいるのが認識できないかのように、またくるりと向き直ったかと思うと、ふらふらと駐輪場に入って行ったからである。
異常だ。今見た優子の顔には動きというか、表情というものがまるでなかった。「無表情」という名の分厚い仮面をかぶっているかのようだった。
急いで彼女の後を追うと、優子はこちらに気づくそぶりも見せずに、何回も自転車に体を引っ掛けながら駐輪場の中をぐんぐん進んでいく。
私も必死で後に続く。優子の引っ掛けた自転車が私に向かって倒れかかり、危うく駐輪場でドミノ倒しをすることになりかけたが、ドミノ倒しになるほど自転車が置かれていなかったので、わたしは倒れてくる自転車に巻き込まれないようにだけ気をつけながら、細い通路を早足で駆けて行った。
長い長い駐輪場の通路を奥まで行くと、錆びたフェンスが立っていた。アーケードの裏、恐らく周囲の建物のうちどれかの持ち主の土地なのだろう、フェンスには裏口のようなドアがついていたが、そこには赤いペンキでで「立ち入り禁止」と大きくかかれたベニヤ板が打ち付けられている。
優子はその看板が目に見えていないかのようなそぶりで、裏口のドアを開けた。なぜ鍵がかかっていないのか。
看板の文字の威圧感に、すこし戸惑いながらも、私は周囲を見渡して人影がないことを確認してからドアの奥に入った。
裏路地というより、そこは四方を建物に囲まれた空き地だった。
なぜこんな奇妙な空き地ができてしまっているのか、バブル期の土地争いの傷痕・・・なわけないか。
などとくだらないことを考えながら空き地を見渡す。
駐輪場の裏口以外には出入り口のない不思議な空間、広さは50平米といったところか。雑草が伸び放題な汚らしい空き地の中心部に、優子が座り込んでいる。
背に隠れて見えないが、何かを地面に置いていてそれに・・・何かしている?
ゆっくりと優子の後ろ姿に近づく。
優子はやはり後ろの私には気付かず、そして手に提げていたカバンから何かを取り出した。
1つはコンビニのレジ袋、そして、もう1つは、そう、そのもう1つがあまりにも異様な物質だったので、私は思わず小さな悲鳴を上げてしまった。
それにも気づかず、優子が手に持っていたそれは、ハンディサイズの枝切り鋏だった。
どおりで、カバンが変な形に膨らんでいたわけだ。
優子はハサミを手元の地面に置き、レジ袋から何かを取り出した。
缶詰?のようだった。真後ろから覗いているので依然優子が何に向かって何をしているのかはわからなかったが、優子が缶詰らしきそれを、やはり缶詰だったそれを開けた時、私は身の毛もよだつような不気味な音を聞いた。
それは、なにかの鳴き声だった。鳴き声というか唸り声?牙をむき出しにした肉食生物が獲物に向かって吠えるような、そのような凶暴な鳴き声だった。
犬のものではない、甲高いその鳴き声は恐らく猫のものだった。
そして缶詰をなぜかそのままハサミとは逆の方の手元の地面に置いてから、優子はおもむろに枝切り鋏を手に取り、鳴き声を上げる「それ」に相対していた。
なんとなく優子が何をしようとしているのか察した私は、全身を襲う悪寒を振り払い、優子に駆け寄った。いや、駆け寄ろうとした、といったほうが正しい。
次の瞬間、
「どけ!」
という声が背後から轟いたかと思うと、私は何かに思いっきり突き飛ばされた、その音にハサミを持ったままの優子が振り返ると、すぐさま優子は私を突き飛ばした者に組み伏せられ、何事か罵られていた。
後ろ姿しか見えなかったが、男だった。
細身の男が女子高生を地面に押し倒し、馬乗りになっている。
「やめろ!」
と私が男に掴みかかると、その痩躯からは想像を絶するほどの力で、後ろに突き飛ばされた。
尚も立ち上がろうとするも何故か足に力が入らない。
「ええっ」
力が入らない自分の足をよく見ると、両足の太ももになにか文字のようなモノがびっしりと書かれている。
筆で書かれたよくわからない漢字だらけのその文字の羅列は、恐ろしいことにグネグネと蠢いている。
「ひぃっひいいいいいいいいいっ」
私は何もできず、太ももについた足を消そうと手で何回も払うも、文字は薄れる気配もなかった。
墨で書かれているのではない、この文字は私の体に、シミのように浮き出ているのだ、まるで皮膚の一部分が黒く変色しているかのように。
スカートをめくり確認すると、それは下着、つまり私の足の付け根まで伸びている。
「なに!なによこれ!」
狼狽する私を、ガクガクと体を震わせながら呻いている優子を押さえつけている男が睨みつけた。
彫りの深い顔、浅黒い肌、大きな瞳は、一見してかなり男前な、男の顔を形作っていたが。私にはそこに悪鬼のような者を感じてしまった。
声も出ない萎縮した私に男は、
「邪魔すんな!じっとしてろ!俺はこの子を助けに来たんだ!」
それだけ言うと、男はなんと優子の首を思いっきり締め付けている。
「や!やめろ!殺す気か!」
「死なねえよ!こんぐらいじゃ!」
と男はがなり立てたが、直後、激しく震えていた優子の四肢の動きが止まった。
それを見た途端、私は全身の血が熱く沸き上がるのを感じた。
足全体に跋扈している不気味な文字を睨みつけると、なんと文字は薄くなりはじめ、ほどなけして跡形もなく消え去った。
足に力が入る。
私が立ち上がり、優子に馬乗りになっている男の背中を思いっきり蹴り飛ばすと、男はびっくり仰天といった感じでその場に転げ回った。
背中に強い衝撃が走ったため息が出来ていないようだった。
「う、動けるのか!」
男の呻き声を背中に浴び、そちらには目もくれずに私はぐったりと仰向けに倒れている優子に近付いた。
優子の姿を見てぎょっとした。
男に絞められていた首から上、顔全体を、先ほどの黒い文字が蠢いていた。
「なにをした!?」
男の方を睨みつけると、背中をさすりながら男は応えた。
「治療だよ。」
治療。それだけ言うと、男はアゴで倒れている優子の頭上の方向を指した。
その方向にあるもの、先ほどまで優子が何事かをしていたものを見た瞬間、私は久々に驚愕した。そしてとてつもない恐怖を感じた。
そこには猫がいた。「いた」というか、「置かれていた」いや、恐らくはまだ生きているであろう猫相手では、私が見たままその状態のままで表現したほうがいいだろう。
猫は埋められていた。生きながらにして、首から下を地面に、綺麗に埋められていた。
本当に綺麗に埋められていたので、なにも知らない人が見たら、猫の頭が地面から生えているというかなりシュールな図に映ったのだろう。
だが、優子に今まで散々オカルトやらなんやらの趣味の悪い話を聞かされてきた私にはそれは全く別のものに映った。
「・・・知ってるのか?」
男の声が後ろから聞こえる。
「この子に昔聞いたことがあるだけ、でもまさか実践するなんて・・・、そこまでいかれてる子じゃないのに。」
「そうだな、今まではいかれてなかったんだろう」
優子の横に立つと、右手を優子の顔面に当て、何事かをつぶやいた。
すると、
優子がいきなり目を見開いたかと思うと、げほげほと激しい咳をし始めた、半身を起こし、ぐるりと仰け反りながら、地面に這いつくばって嗚咽を漏らす。
げぇげぇと、美少女が立てる音とは思えない音を喉から立てながら、優子は嘔吐した。
しかし嘔吐したものがおかしかった。
私には最初それがよくわからなかった、それは赤黒くうねうねと動いていた。
私が悲鳴をあげるよりも早く、男の革靴が「それ」を思いっきり踏み潰した、赤黒い飛沫が小さく飛び散る。
「これが原因だ。この子は悪くない。」
気づくと、優子はまた再び気を失ってしまったのか、うつ伏せになって倒れていた。
抱き起こすと、土で制服がだいぶ汚れてしまっている。
そして私はあることに気がついた。
優子の体から、とても嫌な匂いがする。
死臭や腐臭といったものではない、もっと身近な匂いだ。
そう、優子はとても汗臭かった。髪もギトギトになっている。肌荒れもひどい。
「う・・・」
「この子、お前の友達なんだろ?」
男が聞いてきた。
「親友よ。たったひとりの・・・」
優子の身になにがあったのかだんだんわかり始め、私はいつのまにか涙を流していた。
「何日学校に来てないんだ?」
男には私よりも事の次第が把握できているのかもしれない、何者だこの男はなどと思ったが、とりあえず答えた。
「一週間。」
ふんっ、と男は鼻を鳴らした。
「気の長い話だ。まあいい。お前には話してやろう。俺はこの街で時計屋をしている者だ。時計修理屋といった方が正しいが。
で、裏稼業というか、まぁこっちが本業みたいなもんなんだが、県内津々浦々で霊媒師として仕事をしている。」
いきなりの自己紹介に困惑気味の私の事など気にせず男は続けた。
「一週間前ごろから、俺の縄張りであるこのアーケードに、あからさまに悪意のある何かが入り込んだのを感じた。しかし入り込んだのはわかったが、あまりに微弱な気配に、どこにいるのかはわからなかった。
よる電気を消した部屋で布団に横になっていると、たまに頭上で蚊とか小さな羽虫の羽音が聞こえて耳障りだけど、どこにいるのかはわからないってことあるだろ?あんな感じだよ。
見えない羽虫の羽音のような不快感は、日を重ねるごとにだんだんと増していった。
そして今日、昨日までとは違って恐ろしく強い決定的な気配を感じた。
絶対に今日何かが起こる。そう思った俺は気配を追ってここまでやってきたのさ。するとこれだ。」
男は近くに転がっていた枝切り鋏で、地面から生えているぐったりした猫の周辺の土を掘り起こし始めた。ハサミではなかなか時間がかかったが、ザクザクと地面を掘りながら男は話を続けた。
「しかしなぜ猫なのか・・・。確かにこの呪いは犬だけを使わなくてはいけないわけではない、動物なら何でもとは言わないがある程度の幅はあるはずだ。しかしなぜ猫で犬神を作ろうとしたんだ・・・・よくわからないな。」
犬神。
そう、私が驚愕したのはこの恐ろしい呪術を、優子が実行しようとしていた、いや失敗には終わったが実行していたからである。
動物が体を動けない状態にし、そのまま何日間も放置し、死ぬ一歩手前の完全な飢餓状態にさせる。そしてそうなった動物の前に餌を見せ、動物がその本質を、ありったけの獣性をむき出しにしたところで首を切り落とす。
その首はそのまま餌に飛びかかるのだという。
そしてその首を御神体ととして祀ることによってあらゆる願望を叶える力を得るのだという。
蠱毒、蠱術、と呼ばれるものに近い。
古くから日本の人々は動物の獣性にある種の神秘的な力を感じていたのだろう。私はむしろそんなことが平気でできてしまう人間の方が、よっぽどケダモノだと思う。
「まったく、よくわからん。わからんことだらけだ。」
男はブツブツいいながら土を掘り、ついに猫の
上半身あたりが現れたところで手を止めた。
「そんなことより、お前、なにもんだ?そっちの方がわけわからんわ。」
突然話の流れが私に向いた。
「なにもん?と言われても。」
「なあお前、さっきの、見たんだろ?」
「さっきの?」
私が首を傾げていると、男は自分の足元を顎で指した。
「ああ、あの、虫ね」
男はクックッと小さく笑う。
「あれが虫に見えた、か・・・・」
手についた土を払いながら立ち上がると、枝切り鋏を投げ捨てた。
「猫は助けないの?」
「よく見てみろ」
男にそう言われ、私は何かを察し、あえて猫の方を見ることはしなかった。
「触らない方がいい、まだ生きてるようならせめて土の外に出してから楽にしてやったが、もうそれはただの中途半端な呪物だ。放置も危険だから後で何かしらはするけど、まぁ準備もないしな。」
土を払ったばかりの手でいきなり男は握手を求めてきた。
「アカガワという。また会おう。」
私が握手を返すのを戸惑っていると、男はニカッと笑ってそのままくるりと私に背を向け、駐輪場に消えていった。
その後、しばらくして優子は目を覚ましたが、案の定今まであったことはなにも覚えていなかった。
数日後、いつものようにクラブ活動に向かう優子に私は声をかけた。
「入部したい。」
「え?」
と、予想外の申し出に優子は間の抜けた声を上げた。
「アンタをあんな危険な目に合わせる原因よ?アンタは覚えていないだろうけど、大変だったんだから。」
などと、散々理由を述べながら、うれしそうに跳ねながら廊下を歩く優子についていった。
オカルトクラブへの入部を決めたのは、優子の身が心配だからだというのは本当である。しかしもう1つ、重大な理由があった。
1つは、あの時の優子の、あのナニモノカに操られているかのような状態、そして、あの虫。
そしてもう1つは、
「彼女は、今頃駅前の商店街にいるはずよ。気をつけてね。」
という「彼女」の言葉だった。
彼女は知っていたのだ、優子が商店街にいる事を、そして、「気をつける」必要があるような危険なことに首を突っ込んでいる事を、そして知っていてなお何もしていなかった。
私には彼女が、あの事件の当事者あるいは当時者でないにしても何かしらの悪意があって当時者に協力し、優子がそれに巻き込まれたのだと思えて仕方がなかった。
だから私はオカルトクラブの門を叩く。
親友を守るために、そして、この学校及びこの街に蔓延る悪意から己自身の身を守るために。