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藍の手

作者: たかいせ

 昼下がり。私が木陰で涼んでいる頃に、階段を登ってやってくる彼の頭が見え始める。彼は額にたっぷりと玉の汗を浮かべていて、顎の先まで滴らせてはそれをしきりに手で拭った。ふわりふわりと左右に揺れる彼の頭を、しっぽのように私は思う。

 真鯉の鱗に似た模様の石畳のところへ、彼はやってくる。ここにあるものといえば木のベンチが三つと空っぽの藤棚、それに隅の方に転がっている丸々太ったゴミ袋くらい。彼はきっと、もの好きというやつだ。

 彼はベンチのひとつに腰掛けて、鞄から取り出したタオルで汗を拭き、日除け代わりに頭に掛けた。葉も蔓もない頭上の藤棚は日除けにならないのだ。それから靴を脱ぎ、靴下を脱いで裸足になった。

 あぐらに座り直した彼の背中を見て、私は木陰から抜け出した。後ろから忍び足で近寄っていく。顔の横に垂れたタオルで見えないはずなのに、彼は気づく。

「こんにちは。今日も暑いね」

 そう言って彼は私の頭を撫でた。彼はいつも、私を子供扱いする。私はもう立派におねえさんだというのに。

 そんな拗ねた気持ちも知らずにぐしゃぐしゃと撫でくりまわす手から逃れ、私は彼の左隣に跳び乗るようにして座った。こりずに伸ばしてきた手を叩く。なぜか得意げな彼の表情が癪でしょうがない。彼は叩かれた手を鞄に突っ込んで、紙の束とペンを一本、取り出した。

 彼は魚の絵を描く。

 いや本当は、私が魚を描いていると思っているだけで、彼自身は海を描いているのかもしれない。

 彼の広い手のひらくらいの真っ白な紙の上に、彼の大きな手が深い藍色のインクを乗せていく。私に触れるときのがさつさはこれっぽっちもない優しい手つきで、游々と。そうやって夜色に満たされた海に、月明かりに白く光る魚が尾ひれをひらめかせ、ゆらりと泳ぎ出る。水面近くから底深くまで、戯れ合う魚たちが彼の指先に群れを成す。鱗の一枚一枚が瞬いていて、そのあまりの美しさに、お日様が天辺に昇っていることも忘れて、私はすっかり見惚れてしまうのだ。

 けれどそれは、そんな幻想的な景色は、彼の前にも、もちろん私の前にもありはしない。彼は海の底のような暗い瞳で、ここではないどこか遠くばかりを見ている。絵を一枚描き上げると、彼は低く掠れた声で「いきぐるしい」と漏らした。きっとその「いきぐるしい」が彼をここから遠ざけているのだ。

 そしてそれは、どうしようもなく彼だけの問題だ。

「そうだ。話をしてあげよう」

 描き終えた絵を横に置いて、にわかに彼は語り出した。



 ここの、足休めのポケットパークの入り口に何も乗っていない台座があるよね。本来何かがあるべき場所には丸い窪み。きっと、例えば燈籠を設置する予定だったとしたら、その燈籠の足は同じ真円の形をしていたんだろうね。でも実はね、あれはあれでもう完成しているんだ。あの台座は水鏡なんだよ。雨待ちの、ね。

 雨上がり、月のない晴天の夜に水鏡を覗いてごらん。大きな満月が映っているはずだよ。上の丸い街燈が映り込んでいるんじゃないかって? いやいや、ちゃんと餅搗き兎がいるはずさ。女性の横顔でも、蟹でもいいけどね。

 さて、ここからが重要なんだ。その空にない月が映っている水鏡に飛び込むとね、月の向こう側へ行けるんだ。月面じゃなくて、僕らと同じように、僕たちと反対側の月だけを見ている国にさ。

 その国の人は白い肌と髪に、青い目をしているんだ。月の向こう側には太陽が昇らないから、色素が薄いんだ……って、わかるかな?

 それで、お日様がなくても、月の満ち欠けはあるんだ。不思議だよね。こちらで言う昼と夜は、向こうでは月のある夜とない夜。〈よい〉と〈よわ〉と呼ばれている。

 〈よい〉は光のない真っ暗な、本当に真っ暗な時間で。地上には蛍のような、そういう小さな光だけがほのかに灯っている。〈よわ〉には大きなお月様が空に浮かんでいて、とっても明るいんだ。僕らの街みたいに、いつまでも街燈やお店が明るいままってことがないから、なおさら際立ってね。

 見て来たような口振りだって? 残念だけど、僕は月の向こう側へ行ったことはないよ。ただちょっとだけ、覗き見たことがあるだけさ。

 夜、湯船に浸かっていると、ついうたたねしてしまうことがあるだろう。そういうとき人は皆、月の向こうに引っ張られているのさ。だから、うたたねというよりは、体から意識が離れているといった方が的確なのかもしれないね。まあ、どっちも同じようなものだと僕は思うけど。君には関係のない話だったかな。



 頭に掛けていたタオルを取って、彼は話をするのをやめた。すっかり日が翳っている。見上げた藤棚越しの空は、一面の雲で重く鼠色に埋め尽くされていた。

 私にとって、月の向こう側が本当にあるかどうかは、彼の言うところの関係のない話に違いなかった。水鏡を通って、通らなくともここではないどこかへ行くということは、私にはちっとも魅力的でないのだ。それから、あるかどうか、その点においては、彼にとっても関係ないことなのだと、私は思う。

 彼は歩くのがあまり得意でなかった。その原因について、彼が口にしたことはない。怪我でもしているんじゃないかと、例えば膝なんかを悪くしているんじゃないだろうか。階段を登ってここまで来るのも、顔にこそ出さないけれど、汗もたくさんかいて、とてもつらそうだ。それでも彼はここまで来る。街から離れた、額のように狭いこの場所まで。

 この世の中で生きていくことを、世渡りと、そう言うらしい。

 歩くのが下手な彼は、いつの日か落っこちてしまうだろう。あんなに綺麗な魚を泳がせられる指を持っていても、息苦しくて生き苦しくて堪らなくて、ここではないどこか遠くをばかり思い描いて。

 ああ、どうして彼は人に生まれたのだろう。もっと自由で、落っこちてしまっても上手く着地できるものに、生まれられなかったのだろう。

 彼の代わりにないてしまいたい私の気持ちを肩代わりしたように、雷がひとつ雲間を走って、夕立がざあっと降りだした。

「弱ったね。傘は持ってないんだ。鞄にも。君もそうだろ」

 隙間だらけの藤棚を眺めて、彼はわかりきったことをわざわざ確認した。傘みたいな長物を手にしていないことは一目でわかるし、鞄に入るほど小さな傘があるなんて知らなかったけれど、私は彼のように、荷物を詰め込んだ鞄を持ち歩いたりしない。

 彼が頭に掛け直したタオルはすぐに水を滴らせるようになった。藤棚が頭上で交差しているところに私は座り直したけれど、それは気休めにもならなくて、私の体もあっという間にずぶ濡れになった。寒さに私が身震いすると、彼は私の頭の上に鞄をやった。

 雨はなかなか止まなくて、言葉少なに、私たちは震えた。石畳の窪みにできた水溜まりが大きくなるにつれて彼の口数は減っていって、ふと横を見ると、置きっぱなしにされた彼の絵が雨露に滲んでいた。

「とおるくん」

 彼が声に振り向く。前髪から雫が落ちた。彼の前髪を追って私もそちらを向いた。

「風邪ひくよ」

「ああ、ごめん。こんなところまで」

 ビニールの傘を差した女性は彼のところまで駆け寄って、水溜まりが裸の足首に跳ねるのも構わず、駆け寄って、いい香りのする乾いたタオルで彼の頭を拭いてやった。彼女のやりたいように彼はさせた。彼女が満足して手を止めると、彼は裸足のまま靴を履いて立ち上がり「またね」と私に言った。立ち上がり際、彼は放っていた絵をぐしゃぐしゃにして握り締めた。

 二人はひとつの傘に入って階段を下りていった。彼の足取りは相変わらず不格好で、足首には水溜まりを跳ねさせるし、彼女と反対側の肩をしきりに濡らすものだから、彼女は自分の腕を彼の腕に絡ませて、離れないようにしっかりと組んでつかまえた。むしろ歩きにくいのではないかと思うほどだった。濡れ鼠の彼と密着したせいで、彼のいる右側から彼女の服も濡れていくだろうに。

 私は水鏡の縁に立ち、雨の中、二人を見送った。

 彼の名前は「とおる」という。私は知らなかった。

 彼はこれまでも、そしてこれからもずっと人として生きていく。生きていかなくてはならない。踏み外して落っこちてしまっても、猫のように上手く着地できはしない。それもきっと意味のあることなのだと、そして、彼のこの先の人生に彼女が寄り添っていてさえくれれば、いつの日か、彼は真っ直ぐ歩けるようになるのだとも、今は思う。

 たとえ、彼がそのいつの日かにペンを置いて絵を描くのをやめてしまったとしても、彼の選んだ息の仕方だ。残念に思いこそすれ、引き止めなどしない。

 私にはどうしようもない、彼の問題なのだ。



 雨が上がり、私はまた身震いした。濡れた体や毛先から雫が飛び、水鏡の面を掻き立てて乱す。覗き込むと下を向いた鼻先から水滴がひとつ落ち、一際大きな波紋が広がった。それが収まってようやく、私の顔がはっきりと映る。

 湿ってゆがんだ縞模様。

 へたりと垂れたふたつの耳。

 一匹の猫が作った笑顔は引き攣って、ひどいものだった。

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