悪夢
自分を好きな様に抑え込んでいた相手に拳を叩き込むのはとても気持ちが良い。
犬のような悲鳴は加虐心を加速させてくれたし、赤く見開かれた瞳はとても綺麗だったから歪ませたいと思った。だって私はこんな悪魔より強いから。
強い者が弱い者をどう扱おうと勝手だ。そうだろう、シンディ?
そう言ってこちらをみる少女は酷く歪んだ笑顔を作って、私に手を伸ばしてきた。
「おい」
頭を小突かれて目を覚ます。此処は魔族になってからの私の家だ。正確にはご主人様の家。
寝床に横たえていた私の上には藍色の鴉が乗ってこちらを見ている。私の主となった人……いや、鴉で魔族なのだけど。
「……痛いです」
「こんな時間まで夢の中か。随分と俺を舐めているようだな?」
十字の瞳孔に睨まれ私は苦笑した。それが気に入らなかった様でもう一度嘴で小突かれる。
小さな悲鳴を漏らして、痛む額に手を当てているとその嘴がさらに開いた。
重ねて非難を浴びせられると思い身を竦める。
「良い夢は見れなかったようだが」
「え?」
「うなされていたぞ」
思ったような小言ではなく、寧ろ心配してくれていたような言葉を投げられて逆に困惑した。
声からは特に気遣いは感じられず、寧ろ普段通り横暴に感じるのだが。
「何を怯えているのだ、シンディ」
そして不満を隠そうとしない声色でもあった。
黒犬を浄化したあの日から一週間。私はほぼ毎日のように悪夢に苛まれていた。
自分自身に首を絞められるのだ、延々と恐ろしい言葉を囁かれもする。そしてそれは単に悪夢が作り出した偽物の自分という訳ではない。
あの日、一人で悪魔を浄化……殺した私そのものなのだから。
「ご主人様」
「なんだ」
黒犬を殺した後、訳が分からなくて自分が怖くて、沢山吐いて沢山泣いたように思う。その後の事はよく覚えていない。
気が付いたらこの家に戻っていて、今日の様に横たわった私の上にご主人様が乗っかっていて、一言よくやったとだけ呟いて外に飛んでいってしまったのだ。
体にある筈の傷も痛みも無くて、それが逆に恐ろしかった。
「私はどうなってしまったんでしょうか」
此処数日、ぼんやりと日数が過ぎていた。最低限言いつけられていた家事を機械的に熟して。ほとんど会話もしなかったように思う。あの日依頼"仕事"の話も無かった。
こうやってご主人様と面と向かって会話をするのは久々で、聞きたかった事をやっと伝えられた。
「何がだ?」
「だから、あの夜の……その」
黒犬と呼ばれた大きな人狼。私みたいな小柄な人間に何であんな事が出来てしまったのか。
そして自分ではないような恐ろしい思考の数々、それを今でも覚えている自分。思い返すだけで寒気がする。
「人間ではない、貴様は魔族だ。それも俺の血を分けた」
それは、そうだ。左手の甲を見やれば少しも薄れていない赤い模様が目に入る。従僕の証。
「俺の使い魔なのだから、あの程度の悪魔に遅れを取る筈が無かろう。取られては困る」
私は既に人間じゃない、魔族。それは理解していた。
だからと言って目に見えた変化は感じられなかったから、ただ人外になったんだと漠然と考えているだけだった。それによって自分が変わってしまうとは思っていなかった。
「貴様はあの夜自覚したのだ、己の力を。故にそれを行使した」
「自覚……」
「あの時恐怖に殺意が上回ったのではないか?」
思い当たる節は充分にあった。悪魔に噛まれて苛立ちを覚えるなんて今考えればおかしな話だ。人間だったら痛みと恐怖しか考えられない。
「己よりも下位の存在に嬲られるなど、そんなものは魔族としてのプライドが許さない。魔族ならば殺意が湧くのは当然だ」
「私は自覚した……自分が魔族だと?」
「そうだ、正確にはさせたのだろう……貴様の中の俺の血がな」
そうして私は魔族としての力を使って、黒犬を地に伏せたのだと言う。
あのときの愉悦、加虐心も恐らく私の中の魔族の血……ご主人様の血がそう感じたから、私の思考と混ざったのだろう。
それはそれで恐ろしいが、自分の知らないうちに自分自身が変わってしまったと思うよりは遥かにましだ。
「魔族って人間とは大分違うんですね」
「純粋な腕力に加え魔力……これは人間も使えるが魔族には先天的に扱える者も多い。ほぼ全てにおいて俺達は人間の上を行っているだろうな」
ふん、と鼻を鳴らしてご主人様は私の上から窓辺へと移動する。
「貴様も魔族になったからには身体能力は当然比べ物にならない程上がっている。人間は無論、並の悪魔ならば捻じ伏せられよう。なんせこの俺の血を分けたのだから」
そう強調する口振りからは並々ならぬ自信を感じる。ご主人様の力がどのような物かは知らないけれど、血を分けて貰っただけの私があれだけ出来たのならば相当なものなのだろう。
この小さな姿からは想像できないが。
「俺の使い魔として仕事をするならば、あのような事は日常茶飯事だ。一々気に病んでいたら発狂するぞ」
早口に捲し立てて、ご主人様は窓辺から飛び立った。何処へ行くのか気になったが、それを考える前に投げかけられた言葉を反芻する。
(慰められたのだろうか、一応)
左手の甲を見つめる。赤く複雑な模様をもう片方の手で包む。
少しだけ心が休まるような、不思議な感じがした。