仕事
木造の床、天井、壁。窓から外を除けば森、森、森。どうやら此処は山小屋のようだった。一室しか無い小さなログハウス。しかし一人で住むには充分な大きさだ。ましてや住んでいるのが小さな鴉だけならば寧ろ広いくらいなんだろうか。寝台に横たわったまま周りを見渡してそんな下らないことを考える。これって現実逃避なのかな。
「おい」
窓際から声が聴こえる、此処三日で随分と聞きなれた声だ。
「使い魔の分際で主人より遅い目覚めとは良いご身分だな」
声の方に目を向ければ藍色の毛並みに赤目の鴉。流暢に人語を話すこの鴉は当然ただの鴉ではなく悪魔というやつで一応私の命を助けてくれた……彼(声からして雄だと思う、多分)の使い魔になるというおまけ付きで。
「す、すみません……ご主人様」
恥ずかしさを堪えてそう呼んだ、そう呼ぶように言われていたから。人ではないのに主人でいいのだろうか?主鳥なのでは?そんな疑問は思考の隅に押し込む。使い魔の突っ込む所ではない筈だ。機嫌の悪さを隠そうともしない声色で非難されて慌てて寝台から飛び降りる。急いで顔を洗い、身なりを整えていく。窓際のご主人様はわざとらしく欠伸をしている。
此処に来て早三日、私は使い魔と言うよりはこの家の使用人のような扱いを受けていた。朝は日の出と同時に起きて窓際にご主人様が飛んでくるまでに部屋の掃除、布団を干して朝食の支度。正直私は料理なんて卵を焼くくらいしかやったことがなくて、三日間ずっとパンと目玉焼き二人分だ。テーブルの上に簡素な料理を持ってくると既にご主人様は窓からテーブルの上に飛び移っていた。彼の大きさでは椅子に座るなんて事は出来ないのは百も承知だがそれでもやっぱり行儀が悪く見える。
「またこれか」
テーブルの上に置かれた料理を見て第一声、ご尤もなので素直に受け止める。しかしこちらの反応を見るでもなく、それ以上何も言わずにパンを啄み始めた。あまり食べ物には拘りがないのだろうか。私も席について質素な食事に手をつける事にした。
「シンディ」
パンを千切っては口に入れる作業を何回かした所で唐突に名前を呼ばれる。
「なんですかご主人様」
「貴様が使えるかどうか、そろそろ試してやる」
口元に持っていったパンの欠片が皿に落ちる。凄く嫌な予感がした。
「それって、どういう」
「仕事だ、今夜貴様を拾った場所に行く」
仕事。ご主人様の、悪魔の仕事ってなんだろう。それに私を拾った場所って。
「貴様の親を殺した黒犬を探しに行くぞ」
私の家、きっと焼けてしまっている。お父さんもお母さんもきっと。それに黒犬を探しにって……何を言っているのか分からない。あの場所に戻る?黒犬を探す?黒犬っていうのはきっと、あの悪魔の事だ。私の人生を滅茶苦茶にした黒い化物。私はそいつに殺されかけたんだ。父さんと母さんは殺された。そんな恐ろしい悪魔をこちらから探しに行く?
「なんで、ですか」
「何度も言わせるな、仕事だ」
「仕事って……」
正直仕事が何であろうと今はどうでも良かった。ただあの化物に会いに行くという事実が恐ろしくてたまらない。
「貴様は黙って俺に従っていれば良い」
反論を許さないと言った一言。私は嫌だと言いたかった。でも声が出なかった。ご主人様はこれ以上の会話は必要ないと言わんばかり食事を再開する。勝手だ、凄く勝手だ。使い魔である私の意見に価値は無いと言う事なんだろうか。そして文句の一つも言えない私は凄く情けないと思った。
夜。ただでさえ肌寒い季節、日が沈めば一層冷える。文字通り身一つでご主人様の住居に連れてこられた私に寒さを凌ぐ厚着なんてものはない筈だ。
(ちょっと大きいな……)
しかし私は今、厚手の黒いコートを着込んで家の前に立っている。この家のクローゼットの中にしまってあった、無論ご主人様に促されて着た物だ。何故こんなものが?とりあえず姿だけは鳥であるご主人様には必要のない物だと思うけど。そもそも寝巻きや普段着とかも与えられていた事に今更疑問が浮かんだ。他に誰か住んでいるのだろうか。もしくは過去に同じように人間を使い魔にして使役して、でもその人はご主人様の怒りに触れて死体に戻されてしまった、とか。
「おい」
割と洒落にならない事を考えていたら頭上から声がした。屋根の上に留まった鴉が赤い双眸でこちらを見下ろしている。
「……中々にユニークな姿だ」
ご主人様は私と目を合わせるとその瞳を細め愉快そうに鳴いた。多分笑っている。小柄な女性には大きい黒いコートを着込んだ私は大鴉と言ったところか。身なりなんて特別気にした事はないけれどこの姿は自分でも変だと思う。ご主人様が屋根から飛び立ち、こちらに向かってくる。そして当然といった具合に私の肩に留まった。
「うわっ」
「ふむ、中々悪くはない留り木だ」
使い魔どころか留り木扱い、どこまでも馬鹿にされている。人間の女、しかも彼曰く餓鬼なのであれば当然の対応なのかもしれないけど……我ながら卑屈だ。
「さて、貴様の住んでいた場所は此処よりそう遠くはない。貴様の足でも二刻もあれば着くであろう。道は教えてやる、言うとおりに歩を進めろ」
「いてっ」
言い終わるやいなや頭を嘴で小突かれる。私の住居から結構な近場に悪魔の住居があったんだなぁなどと得意の逃避を始める脳を現実に戻された。足取りが非常に重い。不安で怖くて、正直泣きたい。
「あの、一ついいですか」
「なんだ」
「その悪魔……黒犬を見つけてどうするんですか?」
無視されるかな、こっそりと右肩に留まる藍色の鴉に目を向ける……優雅に毛繕いなんてしている、聞いてないのかなこれは。
「悪魔は浄化する。つまりは殺すという事だが……人間にとっては当然の事だと思っていたが貴様はろくな教養も受けていないのか?」
「えっ……」
こちらを見るでもなく、下らない質問だと言わんばかりに投げやりに答えられる。確かに悪魔は忌むべき存在でご主人様の言う通り浄化されるべきだという教えは聞いている。"教会"の教え、悪魔は文字通り邪悪な魔物。だから浄化されるべき存在。それは人間にとっては当たり前の、幼い子供ですら知っている理だ。実際に悪魔に対抗できる人間は限られているのだが……しかしまさか悪魔自身からその言葉を聞くとは思わなかった。だってそれはつまり、自分自身も消えるべき存在と言っているわけで。
「何を驚いている?」
「だ、だって……ご主人様も悪魔じゃないですか」
「シンディ」
言うや否や今までで一番恐ろしいと思える声色で遮られた。右肩の鴉は自分よりも遥かに小柄な体躯の筈だ。なのに恐ろしくて堪らない気持ちで思考が埋め尽くされて視線が外せない。今すぐ離れたい。これは、殺気だ。
「魔族が全て悪魔だという認識は早々に改めろ……一度は許そう、次は無い。そして俺以外の魔族ならばとっくに首を飛ばされているぞ」
「す、すみません」
殺気はすぐに身を潜めたが私の声は震えた。最近謝ってばかりだ。今のは純粋に私が悪いのだけど。
「貴様の言う悪魔は無差別に人を……時には同族を襲う者達を指す。魔族の中の悪魔は人間で言う悪人だ、そう認識していれば良い」
そういったご主人様の言葉端からは軽蔑のような嫌悪のようなものが感じられた。彼らにも人間で言う善人、悪人の区別がある。それは今まで悪魔―魔族―は全て人間の敵だと思っていた私の常識を軽く覆した。確かに今右肩に止まっている魔族は口は悪いけど私を一応助けてくれたのだった。魔族基準で言えば善い人、鳥なんだ多分。そもそも私が魔族を見たのは生まれてこのかた二度しか無い。一度目は私のすべてを奪った黒い悪魔。二度目は私に生を与えてくれた藍色の魔族。私は未だにご主人様の名前を知らない。
「悪魔を浄化するのは人間……正確には教会の仕事だ。魔族は余程の物好きでなければ他者に干渉しない。魔族の間では悪魔は野放しにされるのが常」
「……つまり」
「人間を魔族に引きこむなど、その物好き共ですらやらぬだろうな」
この魔族はかなりの変わり者で、それを自覚している。
「ずば抜けた物好きの俺は魔族でありながら悪魔を狩る仕事をしているという事だ。そしてシンディ、貴様はその使い魔、助手という奴だ。精々足手纏いになるなよ」