気に病むこと
*
「じゃあ行ってくるね」
「行ってらっしゃい」
その日も妻の有香が玄関口で送り出してくれた。上下ともスーツを着て、ノートパソコンやタブレット端末、フラッシュメモリなどが入ったカバンを持ち、歩き出す。革靴を履いていて歩き辛かったのだが、職場にスニーカーで行くわけにはいかない。電車の駅まで片道徒歩で十五分ほどだった。
駅からホームに入ってきた電車に乗り込み、勤務先の会社まで通勤する。正直なところ疲れていた。社内で企画部にいて、パソコンのキーを叩き続けている。ゆっくりする間はない。ずっとマシーンに向かっていた。時々頭の片隅がズーンと痛むことがある。偏頭痛というやつだった。鎮痛剤は常に持っていて、服用することがある。
その日も昼食を取り終えてから、フロアに佇んでいると、聞き覚えのある声が急に聞こえてきた。ちょうど鎮痛剤を飲もうとする前である。
「係長、気分悪そうですね?」
「分かる?」
「ええ。……私もこの会社に新卒で入って五年になりますし」
「君、二〇〇八年入社だった?」
「はい」
部下の井伏がそう言ってフロア隅にあるコーヒーメーカーへと向かい、コーヒーをカップに一杯淹れた。そして、
「係長も一杯どうですか?」
と言ってくる。
「ああ、済まないね」
言葉が不器用で舌足らずなのは分かっていた。ずっとキーを叩きながら、井伏の淹れてくれたカップに口を付け、軽く啜る。温かい。体がポカポカし始めた。ホットコーヒーの効能とか効果ってこういったものだと分かったのである。そのまま、終業時刻まで仕事を続けた。
*
「ただ今」
「ああ、あなた、お帰りなさい。……疲れたでしょう?」
「うん、まあね。気にしないといけないことは山ほどあるけどな」
「自宅にいる時ぐらい、お仕事のこと忘れてよ。いつも子供いないし、寂しいから」
「ああ、済まない。俺も君といる時は、仕事のこと、頭から離すよ」
そう言って部屋着に着替えると、妻が、
「混浴しましょ。体が温まったら、気分もすっきりするし」
と言ってきた。
「普段からずっと一緒に入ってるからな。俺も疲れてるから、背中とか流してもらったら気分楽になるし」
「あなたもあたしと同じ事考えてるのね。夫婦って似た者になっちゃうのよね」
「そりゃそうだよ。結婚してずっと一緒にいれば、自然とそうなるし」
言ってから、軽く息をつき、笑顔を見せた。有香が、
「あたしもゆっくりしたいな。お風呂で」
と言って下着類を持ち、部屋着のままバスルームへと行く。そして上下とも脱いでから互いに裸体になり、入浴し始めた。深く考え過ぎることなく、ずっと連れ添うだけだ。だが、妻はいつも笑ってくれている。人生の伴侶はどんな時も苦楽を共にすると言うが、まさにその通りだった。シャンプーやコンディショナーで髪を整え、洗顔フォームで顔を洗ってから、ボディーソープで体を洗い合う。辺り一帯に柑橘系の香りが漂っていた。
*
「ビール飲むでしょ?アルコールフリーの」
「ああ、一缶もらうよ。俺も休肝日作ってるから、たまにはいいしね」
「あたしも飲んじゃおうっと」
妻とリビングで食卓を囲み、ゆっくりする。こんな時間もいいなと思っているのだった。夜は夜で楽しみがあるのだ。お互いに、である。実家とは縁が切れていたので、別に気も留めてなかった。
オヤジとは高校卒業後、一度も会ってない。どうでもいいのだった。オヤジは極度のアル中で、朝から酒を浴びるように飲んでは、母に殴る蹴るの暴行を加えていたのである。それで母はトイレで首を吊り、自殺したのだ。オヤジを到底許せないと思っていた。
だが、叔母たちがオヤジのアル中ぶりがひどいことを感じ取り、その手の病院に強制入院させたのである。清々していた。もうオヤジは二度とシャバに出てこれない。心の奥底では思っているのだった。あの人間の辿った末路は、実に哀れだと。
「有香」
「どうしたの?」
「これからも俺たちずっと一緒にいられるよな?」
「ええ。別に心配することないんじゃないの?」
「そう言ってくれると、心強いよ。確かに気に病むこともあるけど、君が家守ってくれれば、俺だって仕事しやすいし」
「まあ、確かにそうね。あたしもあなたがいない間はずっと家事やってるし」
「疲れたら休みなよ。昼寝とかして、ゆっくりな」
「ええ。分かってる」
妻がそう言って笑顔を見せた。俺もにこやかになる。普段パソコンの画面を見続けているので疲れるのだ。だが仕事が終われば、ゆっくりする。残業もあるのだが、なるだけ早めに帰ってきて、有香と共に過ごすのだ。別に抵抗はなかった。子供はいなかったが、いいと思っている。夫婦二人でリラックスして過ごすのだ。特にこんな冷える夜は。
「今夜も早めに休みましょ」
「ああ。誰でも夜は眠る時間だからな」
データの詰まったフラッシュメモリなどはカバンに入れたままにして、ベッドに寝転がる。疲れていたから、すぐに寝入ってしまった。ゆっくりと夜の時間を過ごす。ずっとそんな感じで毎日が回っているのだった。朝起きてから、昼を挟み、夕方か夜遅くまで仕事だ。まあ、人間だから何もしないわけにはいかない。特に俺ぐらいの年代――三十代半ばだが――の男性だと、そういったことがすっかり定着してしまっているのである。日常生活のサイクルの一つとして。夜間は睡眠に充てている。極力無理しないようにして。
そしてまた新たな日がやってくるのだ。まるで戦場のような一日が、である。毎日臨戦態勢だった。気を抜けるのは、妻といられる時である。それ以外はずっと頑張っていた。電車に揺られながらも、タブレット端末やスマホなどを見ながら、常に頭の中の情報を新鮮なものに入れ替えて。
(了)