わずらひて
それは今から七、八年前。土用の近づいた蒸し暑い日のことだった。
滅多に電話などよこさない実家の父から、
「今度の日曜に鰻を食わせてやるから、子供たちも連れて家に来ないか」
と、電話が掛かってきたのだった。
その年はちょうど日曜が丑の日で、子供たちも学校は休みだった。私も特に用事らしいことは何もなく、
「うん。何時頃に行けばいい?」
「昼前には準備しておくから、そのくらいの時間に」
「わかった。じゃあ」
たぶんそんなことを言って、電話を切ったのだった。
私の実家というのは、四方を山に囲まれた「ド」の付く田舎にある。近くには、さほど大きくはないが、それでも水の澄んだ川が流れ、私が子供のころ、父は毎日のように川に出かけては、鰻や鮎、川海老などを捕まえていた。そんなだから夏になると、鰻も鮎も、ほぼ毎日のように食卓に上り、私にとっては、ごちそうと思えるほどのありがたさはない。つまり、私は鰻があまり好きではないのだ。いや、むしろ、嫌いと言ったほうがいいかも知れない。子供のころからひどい偏食で、今でも嫌いな食べ物ならたくさんある。だから、父から「鰻を食わせてやる」と言われても、さほど嬉しくもなかったのである。しかし、それでも滅多に電話をよこさない父が、せっかく電話を掛けてきてくれたのだ。両親だってたまには孫の顔が見たいのだろう。
父に言われるまま、私は子供たちを連れ、日曜日に実家を訪れた。
私が実家に着いたのは、昼に少し前だった。兄夫婦は早くに到着していたのか、私が居間に顔を出すと、
「お先に始めてます」
兄嫁がビールの入ったコップを掲げながら微笑んでいる。頬はほんのりと赤らんで、
「Kちゃんも、早くいらっしゃいよ」
と、自分の横の席を指して、私を誘った。すると、後ろから母も、
「遅かったわね。待ちきれなくって、お父さん、先に始めちゃったのよ。早く子供たちも上がんなさい」
そう言って、子供たちを居間に連れていくと、唐揚げだの、海老フライだの、巻き寿司だのを、小皿に取り分け始めた。
父も、すでにビールを何本か呑んだらしく、
「遅いじゃないか」
酔ってきたのだろう。いつもより饒舌で、にこやかな顔で私を見た。
「遅くなってごめんなさい」
私も席に着き、グラスをとると、
「ウーロン茶でいいか? ビールもあるけど?」
問いかける兄の言葉に、
「ううん。車だからお茶にして」
と、答えたその時だった。父が、
「お前、なんだか、また痩せたんじゃないか?」
ふいに、心配そうに顔を曇らせたのである。
「ちゃんと、病院には行ってるのか? 検査もしてるのか?」
と……。
「行ってるわよ、心配しないで。特に異常もないわよ。それに、痩せてなんかいないし。むしろ太ったくらい」
私がつとめて明るくそう答えると、父は、
「そうか……。なら、いいんだが……」
呟くように言ってから、そのまましばらく黙ってしまった。
こんなふうに父が心配をしたのは、過去に、私が大腸癌を患ったからだ。
癌が見つかったのは、二十九歳の春。
担当した医師からは、
「普通、大腸癌なんてのは、もっと年を取ってからかかるもんですよ。例えば四十代で大腸癌が見つかったとしても、早いと言われるのが普通です。なのに二十九歳の患者なんて、初めて見ました。いったい、どんな食生活をしているんですか?」
と、半ば呆れ気味に言われた。けれど、私も、なりたくてなったわけではない。
しかも、病巣は検診で見つかったわけではなかった。この、検診で見つかったのではないという事実が、「すでに初期ではなく、癌が進行しているかもしれない」と、家族を不安にさせたのは言うまでもない。
初めは風邪でも引いたのだろうかと、そう、思っていた。妙に躰がだるく、便秘かと思えば下痢になったり、微熱が何日も続いたりする。しかし、寝込むほどではなく、医者に行くほど高熱でもない。子供たちもまだ小さく、上の子がようやく保育園に通い始めたばかりで、育児疲れもあるのだろうと、初めはさして気にも留めなかった。しかし、そんな状態が五カ月ほど続き、どうもこれは普通ではないと思い、私は近くの内科を受診したのである。
当時は、今のようにMRIによる診断が普及してはおらず、しかも内科の、田舎の開業医には診断のつきようもなかった。医師は、白血球の数値が正常より若干高いが、原因についてはわからないと言い、大きな病院での精密検査を勧めたのである。「紹介状を書きますから」と、そう言って。
紹介された病院で、内視鏡検査とレントゲン検査を受け、大腸に癌が見つかったと知らされた時、動揺しなかった言えば嘘になる。自覚症状があってから、すでに半年近くが経っていたし、医師からも、進行している可能性があると告げられた。
「病巣の広がり方によってはストーマ(人口肛門)の処置をすることもあります。覚悟をしておいて下さい」
そうも言われた。
だが、私は見栄っ張りなうえに、素直ではない。主人や実家の両親の前では、平気そうなふりをして、「大丈夫よ」なんて言い、笑っても見せた。しかし、正直に言うと、検査をしている時から、足が竦みそうなほどの不安に襲われていたのである。間違いなく「死」というものを意識したし、「もっと生きたい」と思ったのもこの時だ。そんなことを思ったのも、生まれて初めてだったかもしれない。健康な人間にとっては、生きていることは当たり前なのだ。当たり前に生きている毎日の中で「もっと生きたい」などと、思うはずもない。
この頃、子供たちは実家の母に預けていた。入院する日の朝、子供たちを実家に連れていくと 母は、
「いい、親より先に死んだりするのは、一番親不孝なんだからね。絶対、治って帰って来るのよ」
と、目に涙を浮かべて声を詰まらせる。
「もう、大丈夫よ、大げさなんだから」
一応、そう答えはしたのだが、それ以上母の顔を見ていると、こっちが泣きそうだ。
「もう行くから」
急ぐふりをして、実家を出た。
いくつになっても、親は子供のことが気にかかる。
私にとってもそれは同じで、子供たちがいることが、その頃の私には大きな支えだったと言えるだろう。子供たちのために、私は生きなければならない。どうしても、死ぬわけにはいかない。そう、思った。子供たちを残したまま死んでしまったら、きっと悔いが残る……。
皮肉なことだが、病気になって、あらためて親の心というものを知ったと言える。つくづく自分の未熟さを実感したのもこの頃だった。
だから、診断がつき、手術をするというころには、「絶対に、治って見せる」そう、強く思うことができたし、医師や、看護婦さん(当時は、看護婦という言い方が一般的でした)たちからも、「これほど前向きな患者さんもめずらしい」などと言われた。
そんなおかげか、悪運の強さのせいか、手術は無事成功し(間違いなく執刀医の功績です)、私は今、こうして元気にしている(執刀してくださった先生、本当にありがとうございます)。
さて。現在私のお腹には、臍の上約三センチのところから、まっすぐ下に伸びる傷痕が今でも残っている。しかし、それでも普通の人となんら変わらない生活を続けることができるまでに回復したし、病気をしたことなど、普段は忘れているほどで、最近では生来の酒好きも手伝って、お酒も普通の人より呑んでいるくらいだ。
「人生は、いつどんなことがあるかわからない。例えば病気にはならなくっても、突然事故にあうことだってあるかもしれない。あるいは、突然頭上から石が落っこちてきて、下敷きになってしまうかもしれない。そうなったときに、あー、あの時、こうすればよかった、ああすればよかったと、後悔するようなことだけはしたくない。食べたい時に、食べたいものを食べて、呑みたいときには、呑んでおかなきゃ」
早い話が、泥酔する言い訳なのだが、宴会に出向くと二日酔いするくらいに呑むものだから、実家の母からはよく叱られる。
「健康のために、お酒はほどほどにしなさい」
と。
そして今日、父が久しぶりに電話を掛けてきた。用件は大したことではない。
「鮎をたくさん捕まえたから、食うなら持っていこうか?」
という内容だった。
「うん。くれるんなら、もらおうかな」
そっけなく、いつものように私が答えると、
「ところで、病院へは、ちゃんと行ってるか?」
久しぶりに父がそう呟いて、ふいに、涙がこぼれそうになってしまった。
こんな私でも、ちょっとは成長しているのだろうか。
最近は、鮎が、嫌いではない。