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露と答へて  作者: 夜露
8/23

楽をまなびて 其の二

 今回、私が長女のもとへと出向いた理由は、実は、二つあった。一つはもちろん、管楽器とのアンサンブルの演奏会を聴くことである。こちらの方は、先の章でも書いたように、無事、目的を果たしたと言えよう。とても、素晴らしい演奏会だった。

 そして、もう一つの理由。それは、翌二十五日に行われるギター科の定期演奏会を聴くことだった。

 娘の通う音大のギター科は、九月の定期演奏会と、十二月のクリスマスコンサートの年に二回、演奏会が催されるのだが、今までは仕事で休みが取れなかったり、色々な事情で忙しかったりして、実は一度も聴きに行ったことがなかったのである。しかし、今回は、前日にも演奏会という「ついで」がある。それに、S先生とK先生にも一度ご挨拶をしておきたい。こんなふうに演奏会が続くなんてことも滅多にないだろう。

 二日休むのも、三日休むのも、たいした変わりはないのだし、しかも、土日をはさんでいるのだ。私は仕事になんとか融通をつけて、演奏会を聴きに行くことを娘に伝えたのだった。

 すると、

「あのね、演奏会はエクステンションの人も出るから、楽しみにしてて」

 私からの電話に、長女は声を弾ませてそう言うのだ。

「へっ? エクステンション?」

 しかし、無知な私の頭の中にあるエクステンションと言えば、ギャルご用達のあの付け毛しかない。エクステンションの人っていうのは、付け毛の人って意味? でも、ギター科に、女子はうちの長女だけのはずだし。まさか、男の人が……。

「もしかして、コスプレしてギター弾くの?」

 恐る恐る私が問い掛けると、

「はぁ? 何でコスプレなの?」

「だって、エクステンションって……」

「あはは。もぉ、ウケる。お母さん、コスプレって、妄想しすぎ!」

 笑いながらそう答える長女。

「だって、エクステンションと言ったら、付け毛のことじゃない。何なの? エクステンションって?」


 長女の説明によると、このエクステンションというのは、最近の大学にはよくある公開講座のことであるらしい。大学によってはオープンキャンパスとか、単に公開講座と言ったりするところもあるらしいのだが、一般の、つまり正規在学生向けの授業ではなく、外部からの受講者を受け入れるシステムのことで、ギター科には男性三名、女性一名の生徒さんがいると言う。

「エクステンションの生徒さんって、前にギターを習っていた人ばっかりだから、結構上手なの。でね、白髪頭のすごく面白いおじさんとかもいて、一緒にレッスンを受ける日はとっても楽しいのよ」

 そうかい、そうかい、それは良かったね。そう言って相槌は打ったのだが、恥ずかしながら私はまったく知らなかった。

 高卒で大学のことをよく知らなかったとはいえ、間抜けな母親っぷりをまたしても露呈してしまったのか! 娘にしてみれば「いいネタを仕入れた」とほくそ笑みたい気分だろう。友達に「うちのお母さんったらねー」と私のドジ話を広めているところが目に浮かぶようだ。


 と、そんな笑い話は脇にどけて、話を本題に戻そう。


 さて。楽しみにしていたギター演奏会は、音大校舎内にある小ホールで行われた。

 本館の三階にあるそのホールは、客席数は約200席とこじんまりしたホールなのだが、ギターの演奏会にはこれくらいのホールが丁度いい。大きすぎるホールでは、マイクを使わないとギターの音色が後ろの方まで聞こえないし、マイクを通すと、繊細な音色の良さが損なわれる――。と、知ったかぶりをしてみたが、半分は長女の受け売りである。長女から色々教えられたとはいっても、ギターのことは、ピアノよりもさらに知識がないから、詳しいことはさっぱりわからない。例えばミスタッチなどがあったとしても、おそらく私は気づけないだろう。

 しかし、それでも娘に連れられ、あちこちの演奏会などに出かけるようになってからは、随分と私の耳も肥えてきた。どこがどうだったなんていう、批評めいたことはさすがにできないのだが、「この人の演奏は音が違う」というくらいのことはわかるようになった。演奏する人によって「持ち音」というのがあって、同じ楽曲を演奏していても、音色が違うのだ。素晴らしい奏者になると、空気までが違っているように聴こえてくる。

 そう。今回はS先生も演奏されるというので、さぞかし素晴らしい音色だろうと、そちらの方も私は楽しみにしていた。なんたってS先生は、雑誌「現代ギター」にも名前が載るくらい奏者としても有名である(と言っても、ギター関係者の間ではというものだが)。その演奏が生で、しかもタダで聴けるなんてことは滅多にない! 私は期待に胸をふくらませ、大学に向かったのだった。


 到着したのは開場時間の十分前。開演は午後四時からで、開場は三時半だ。長女の出番は一番最初であるから、長女はすでに控室である。「ちょっと早いかな?」とも思ったのだが、遅れるよりはいいだろう。私はロビーを抜け、エレベーターのボタンを押した。開場まではあと少しだ。ホールの前で待っていればいい。

 やがてエレベーターのドアが開き、私が乗り込もうとしたときだった。後ろの方からおじさんが一人やってきて、一緒のエレベータに乗ったのである。年は六十過ぎくらいだろうか。ちょっと川谷拓三を想わせる横顔で、背はそれほど高くはない。しかも、あんまりじろじろ見るのは失礼かとも思ったのだが、中世のキリスト教の伝道師のようなヘアスタイルで(つまり、頭頂部に毛髪がない)、年の割には、襟の部分やポケットなどが黒の水玉模様(パッチワーク風?)という、イカしたシャツを着ている。

 私が三階のボタンを押しているのを見て、一瞬、クスリとはにかんだ笑顔を浮かべたような気がしたのだが、「何階ですか?」と、私が訊く前に、慣れた様子で、さっと六階のボタンを押したから、「おそらく大学関係者だろう、笑顔は気のせいだったか? それとも私と二人きりでエレベーターに乗るのが恥ずかしいのか?」などと厚かましくも考え、私はさして気にも留めなかった。

 ところが……。

 はじまった演奏会、司会進行役のK先生に紹介されて現れたのは、なんと、さっきのおじさんではないか! 確かに、S先生の写真は何度か拝見したことはあった。しかし、どの写真も舞台上で演奏中の写真や集合写真ばかりで、S先生の顔がよくわからなかったし、何より正面から写した写真ばかりだったから、頭頂部が○ゲているなんてとこまではわからなかったし……。

 えー! ま、まさか、あれがS先生だったのぉー!

 そんなぁー!

 当然ながら、私の頭の中ではエレベーターでの出来事がハイスピードでリプレイされる。粗相はしてないつもりだが、しかし、与えた印象が良かったと言えるかどうか……。なにしろ、ジロジロ見ちゃってるし……。

 壇上ではS先生が、エレベーターの中で一瞬見せた、あのはにかんだ表情で、

「皆様、本日はようこそ……」

 とかなんとか、言っていたような気もするのだが、動揺のあまり私はよく覚えていない。

 つまり、あの笑顔は、三階のボタンを私が押しているのを見て、「演奏会に来てくれたのだな、ありがとう」という、S先生の気持ちの表れだったのである。それを、こともあろうに私は「恥ずかしいのか?」などと勘違いしてしまったのだから、こっちが恥ずかしい。長女が一緒にいなくて良かったと、心から思った瞬間だった。


 しかし、そんな私の動揺などは取るに足りないことなのか、演奏会は予定通りに始まった。

 先ずは長女の演奏である。実は、長女のギター演奏を聞くのはとても久しぶりだったのだが、「こんなに上手だったっけ?」と、驚くくらいに上達していて、伊達に大学で勉強しているわけではないのだと、当たり前のことに感心した。まったく、どこまでも親バカだと自分で笑ってしまうのだが、私にとっては自慢の娘だ。手前味噌だが、ご容赦願おう。

 続いて一年生二人と、四年生一人の演奏。そして休憩をはさんだのち、エクステンションの方々。みんなそれぞれに毎日練習しているだけあって、長女の言うとおり素晴らしい演奏だった。中でもエクステンションの方(長女の言うところの面白い白髪のおじさんであると思われる)が弾いた十八世紀ギター(普通のギターより少し小ぶりで、音は若干高い……かな?)というのにはとても興味を惹かれた。実は長女の弾いているギターも十八世紀風の構造になっているのだが、長くなるのでこの話はまたの機会にしよう。

 そしてK先生。若く洗練されたイメージのK先生にふさわしい近現代の難解な曲ではあったが、とても重々しく、ずしりと響く演奏には感動した。

 そして、最後は誰が何と言ってもS先生だろう。その素晴らしい演奏は、本当に溜息が出るほどで、ギターから響いてくる音色の美しさは、形容のしようもない。H市まで聴きに来たかいがあったと、心から思える演奏だったことは、私ごときが言うまでもないことだ。

 とにもかくにも、そんなこんなで、拍手喝采に包まれたまま、演奏会は無事終了したのであった。


 ところで、このS先生。長女のピアノの先生とも仲が良いそうで、ピアノのことにもとても配慮をしてくださる本当に心の広い先生だ。しかも、時々お茶目なことも言うそうで、お酒もなかなかイケるクチらしい。

 その日も、演奏会が終わってから、当然みんなで打ち上げに行ったのだが、

「母が、先生にご挨拶できなくて申し訳ありませんと言ってました」

 と、宴会の席で、挨拶をした長女に、

「えっ? お母さんが来てたの? なんだ、言ってくれれば良かったのに。僕も挨拶したかったなー」

 気さくにもS先生はそうおっしゃってくださったと、帰宅した長女から聞かされた。

「でも私、エレベーターの中で会ったんだけど」

「あー、たぶん先生は気づいてないと思うよ」

「ほんとに?」

「うん。だって、S先生、ギター弾いてないときは、ボーっとしたただのおじさんだもん」

「……」

 まあ、天は二物を与えずという諺もあるくらいだ。才能のある演奏家なら、普段はぼんやりしているくらいが、凡人の嫉妬を買わなくていいだろう。

 そして、私がほっと胸をなでおろしたのは、ここだけの話である。



※「現代ギター」は、楽器店にて販売されているクラシックギターの専門誌です。興味のある方、もしくは購入希望の方は、楽器店にて立ち読み、もしくはお求めください。

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