エアコンのありけるを
まったく、今年の夏の暑さときたら、本当にひどい。
いつもならお盆を過ぎてそろそろ秋の風も吹き始めようかという時期なのに、今日も日中は三十度を軽く超えた。暦の上では残暑のはずなのだが、夏の名残などという可愛らしさはどこにもなく、限度を知らぬかのごとき猛暑である。
毎日ただただ、ひたすらに暑く、暑いし、暑すぎる……。
せっかく娘たちも夏休みで帰省したというのに、これでは満足に語らう間もないままに暑さに耐えかねた娘たちが、各々の大学に逃げるように帰ってしまうと思うと少々残念なのだが、クーラーという文明の利器のない我が家ではいたしかたないだろうと、私は思うのだった。
そう。
非常に残念なことなのだが、うちには、クーラーがないのである。
いや、厳密に言うと、一台だけなら、ある。
確かに、あることは、あるのだ。
しかし、それは、我が家的には、ないに等しいものであり、使用されることは年に数回で、片手で数えても余る程度しか稼働しない。
なぜかというと、今から二十年以上前に取り付けた、めちゃめちゃ古っーいエアコンであり、当然、省エネだとか、なんとかセンサーだとかいうようなハイテクな機能はいっこもない、埃でくすんだ、たまに変な音を発しては娘たちを不安にさせる代物なのだった。
しかもそれが設置されている部屋は、リビングではなく、ダイニングやキッチンでもなく、寝室でもない。
貧乏な我が家には贅沢だと言われるところの、ピアノ部屋。娘たちがピアノを弾く時以外は足を踏み入れることのほとんどない、ピアノと楽譜と、普段は使わない荷物の置かれた物置部屋。それが、唯一エアコンの設置された部屋なのであった。
なぜ、借金まみれの貧乏我が家にピアノがあり、この部屋にだけエアコンが設置されたのかについては、長くて面倒な話になるので今回は割愛する。また、時間のある時にでも書こう。
しかし、それでも我が家にはヤマハのアップライトピアノがあり、その部屋にだけエアコンが設置されているというのはまぎれもない事実であり、最近は年に一度、ピアノの調律の時だけはエアコンをつけて、まだ動くかどうかを確認するのが年中行事のようになっているのであった。しかも、こんな現状にもかかわらず、いつかはスタインウエイのグランドが欲しいなどと身の丈もわきまえぬ妄想を飽くことなく私が抱いているのも、ごまかしようのない真実なのだが。
とまあ、こんな調子で年にほぼ一度しか稼働しないエアコンは、家族から存在を忘れられる稀有な家電であり、その存在価値は非常に希薄だ。「うちにはエアコンがない」といってもあながち嘘ではないと思えるくらいに電気代もかからない。
なのに、それでも無いものにしてしまえないのは、ピアノの存在が大きいせいだろう。
この夏休みにも、帰省した娘がショパンのノクターンとか、ガーシュウィン(ラプソディー イン ブルーが有名)の何とかってのを弾いてくれたのだが、やっぱりピアノの音色は疲れた心を癒すのだ。私はバイエル程度しか弾けないが、それでもピアノが好きなのだ。
そして、その大事なピアノを調律してくれる調律師さんのためにエアコンを稼働させるのが、我が家なりの礼儀なのだ。
嗚呼、エアコンよ、エアコンよ、どうか壊れることなかれ。
貧乏たれの私は、密かにそう、願うのであった。
さて、この、ピアノのためのエアコンという感覚はうちだけのもので、とても特殊な感覚であることは、他人様から言われなくってもわかってはいる。現在あるエアコンは、ピアノにかかる事情のためにしか稼働させないのが我が家流なのだ。
そして、他の部屋にまでエアコンを設置する経済的余裕と肉体的必要がなかったので、今の今まで、エアコンというものがない暮らしに耐えてきた。
しかし……。
今年の夏は、本当に暑い。
昼間に家の中にいると耐えられないくらいに暑いのだ。玉のような汗が全身から半端なくわき、朝っぱらからレノアをしてても汗臭い。
うん。しょうがない。
明日は、買い物に出かけよう。
もちろん、買うものは、何もない。
特に買うものは何もないが、家にいるよりはクーラーの効いたイオンやデパートのほうが、過ごしやすいだろうから。