おもひではかくも美し 其の一
これは、今から四年ほど前の、長女が高校三年のときの話である。
なんと長女は学校で、あろうことか、盗難にあった。
事件が起きたのは三年の一学期の終わりごろ。期末試験の近づいた、蒸し暑い日だった。ちょうど、梅雨の晴れ間と呼ぶのにふさわしいその日は、蒼々とした空に、白い雲がアップリケのようにまばらに浮かび、久しぶりに覗いた太陽は自らの存在をアピールしたかったのか、登校中から制服が汗で肌にへばりつくほど日差しがきつい……。
つまり、朝から、暑いのだ。
べっとりと手アカのついている言葉だが、つい「うだるような暑さ」と形容したくなるような、そんな日である。おのずと長女たちが二時限目の体育を、夏定番の水泳の授業を、楽しみにしていたというのも肯けることだろう。
さて、そんなみんなが楽しみにしていた体育の授業というのは、いつも長女たちのクラスと隣のクラスを合わせた、女子ばかり五十名ほどで行われていた。普段の授業の時は各クラスごとに決められている更衣室でジャージに着替えるのだが、水泳の時だけはプールに併設された更衣室で着替える。
長女の高校では体育館の南側、道路に面した場所にプールがあり、そこに校舎から通じる渡り廊下はない。したがって、水泳の授業の時にはいつも、いったん生徒用昇降口から靴を履いて中庭に出て、そこからプール更衣室の出入口より入るのが決まりだった。更衣室にはプールサイドへと直接つながる別の出入り口もあり、着替えを済ませた生徒から順に、プールへと出て行く。だから長女たちはその日、いつものように水着に着替えて、みんなと一緒にプールに向かったのである。
異変に気づいたのは、水泳の授業が終わってからだった。
長女が更衣室に戻ると、先にプールから上がって着替えはじめていたUちゃんが、バスタオルを体に巻き付けたまま、
「あれっ?」
と、不安の混じった声を発したのである。
「あたしのブラがない……」
……と。
Uちゃんと言うのは隣のクラスの女子で、バレー部のエースだった。笑顔はさわやかで背が高く、おまけにスタイルも抜群なのだが、性格は少々男勝りで几帳面とは言いがたい。更衣室でも、下着や靴下を脱いだ形のまま制服の中に丸めこんでいるようなタイプで、棚はいつも散らかっていた。
なので長女は、
「どっかその辺に落ちてるんじゃないの?」
と、当然のごとく思ったのである。いつも散らかってるんだから、Uちゃんなら、下着をなくすこともありえるだろう……と。
たいして気にもとめず右から左に受け流し、長女は自分の着替えに専念する。次の授業は大好きなM先生の音楽史なのだ。ぐずぐずしていて、遅れるわけにはいかない。
ところがその日、慌てふためいたのは、Uちゃんだけではなかった。
「あれっ! わたしの下着もない!」
「いやーっ! あたしのもパンツもないーっ!」
なんと、別の子までが騒ぎ出したのである。
見るとそれは、同じクラスのAちゃんとMちゃんではないか!
さすがにこれは、おかしい。
だって、AちゃんとMちゃんの二人は、几帳面を絵に書いたような性格で、脱いだ服はいつもきちんとたたまれているのだ。その二人がそろって「下着がない」と言い出すなんて考えられない!
もしかして、これは下着泥棒……なのか?
そう長女が思った時、誰かが「泥棒じゃないの? 先生に言った方がいいよ」と言いだし、隣ではUちゃんが必死の形相で棚を混ぜくり返し、慌てて他のみんなも自分の棚を調べはじめた。
この時長女は、他人事のように思ったそうである。
下着を盗られるなんて、本当に気の毒。盗られた子の下着はきっと、女子高生らしい可愛らしいフリフリヒラヒラのやつだったのだろうな……と。
そう、まさか自分の身に、同じ不幸がふりかかっていようだなどとは、夢にも思わなかったのだ。
なぜなら、当日長女が着けていた下着は、ファッションセンター「しまむら」で買った、上下セットで680円という、「超」の付く安物だったのだ。一応、柄はイチゴ模様で乙女仕様になってはいるが、一見して安ものとバレる代物である。
「こんな安物を、わざわざ盗む泥棒なんていないよ」
無意識のうちに、そう思ったらしい。
いやはや、さすがは我が娘。能天気ぶりは折り紙つきと言っていいだろう。間違いなく母からの遺伝である。苦るしゅうない。褒めてつかわそう!(笑)
かくして長女は、みんなから一拍遅れて気がついたのである。自分の下着もないということに……。
さて。
「きゃーっ! 私の下着もない!」
と、長女が思わず悲鳴を上げたときには、すでに半数ほどがの女子生徒が制服に着替えていた。
「えっ? Aちゃん(長女の名前)も、下着がないの?」
のんびりとした表情で訊いてくれた隣のクラスのKちゃんも、難から逃れたのか、長女をしり目に制服を着こみ、やがて、セーラー服のリボンを結べば着替え完了という状態になった。
「……うっ」
しかし、長女は着替えることすらままならない。なんたって、下着がないのだ。バスタオルを巻き付けただけの、情けない格好のまま、一人、また一人と、更衣室から出てゆく制服姿のクラスメートたちを、茫然と見送るしか手だてはない。先に着替えた子が先生を呼びに行ってくれているはずではあるが、いつになるかもわからない。時間は刻一刻と過ぎていく。
「どうしよう……」
もうすぐ休み時間が終わってしまうのに、これでは、更衣室から出ることだってできないじゃないか。
Uちゃんや、被害にあった他の子たちと顔を見合わせて、長女はため息をついた。そしてその時、授業開始を告げるチャイムが、更衣室に取り残された長女たちをあざ笑うように校舎に響いた。
M先生の授業は、もう始まってしまっただろうか……。嗚呼!
長女の落胆は、下着を盗まれたことよりも、M先生の授業を受けられなかったことのほうが大きかったかもしれない。おかげで、憎っくき下着泥棒め! と、感情がさらに燃え上がったことであろう。
さてさて。その日、下着を盗まれたのは、長女を入れて全部で五名。
ブラとパンツ(「パンティー」と書くと長いし、妙に嫌らしげなので、ここではパンツと書く)の両方をセットで盗まれたのは長女を入れて四名で、残る一人はパンツだけの被害だ。他に、制服や現金、携帯なども更衣室には置かれていたのだが、金目のモノはまったく盗まれていなかった。つまり、犯人はあきらかに変質者であろう。おそらく、道路側の塀を乗り越え、更衣室の外出入り口から侵入し犯行に及んだものと思われる。更衣室は普段、使用中は内側から鍵がかけられているのだが、その日はたまたま、最後に入った子が鍵をかけ忘れたらしい。プールは構造上、塀よりも高い位置にプールサイドがあるため、生徒の中にも目撃者はいなかった。
だから、犯人はやすやすと更衣室に侵入できたのだが……。
たとえば、これがもし厚顔なおばさんだったら、素っ裸の上にそのまま制服を着て、平気な顔で外に出たかもしれない。しかし、被害にあったのが、たとえブラだけ、パンツだけであったとしても、多感な思春期の女子校生だ。ノーブラ、ノーパンで更衣室を出るなんてことはできようはずもないし、精神的ショックも大きい。要するに、被害にあった子たちはみな、現場状況の保存などということは念頭にも浮かばず、焦燥にまかせて棚を混ぜくり返し、しかし、着替えることはできないまま、更衣室から一歩も出ることができなかったのである。
長女のクラスの副担任である女性教師(K先生)が更衣室に来たのは、チャイムが鳴ってから五分ほどたったころだろうか。K先生は、とりあえず更衣室から生徒たちが出られるように、N先生が近くの量販店に下着を買いに行ってくれていることや、校長先生が警察に連絡したこと、たぶん後で警察の人に事情を聞かれるだろうことなどを伝え、下着が到着するまで、長女たちと一緒に更衣室にいてくれた。
「もう、先生ー、信じらんないー!」
「ほんと、今日はサイテー!」
「ありえんし!」
誰ともなく、K先生に愚痴をこぼしはじめ、それまでの状況の説明やら、なんやらかんやらを話していると、長いはずの待ち時間も、思ったほど退屈ではない。やがて、長女たちの間から笑い声も漏れ始める。量販店からN先生が戻ったのは、それからさらに半時間ほどたったころだった。
「ごめんねー。○○スーパーには、みんなが気に入るような可愛いデザインのがなかったのよー」
と言いながら、N先生は申し訳なさそうに、色はベージュでワイヤーなし、フルカップのオバサン御用達ブラと、紺と白のボーダー地にキャラクターロゴの入った中学生仕様パンツを渡してくれた。
これを着けて帰るのは、普段の長女たちならきっと気がひけただろう。
しかし、事態は平時ではない。有事だ!
長女たちはみな、不安や困惑からは解放され、逆に犯人に対する怒りから、「こうなったら、なんでもこい」な開き直りというか、ある種の臨戦状態に至っていたと思える。
「いや先生、全然、オッケーです!」
みんなが、声をそろえて答えた。
手渡された下着は、確かに可愛くはなかった。おまけに先生は、
「もしこの下着が後々いらないようだったら、お母さんにでもあげてね」
などと、恐ろしいことまで口走った。しかし、
「えっ……いくらなんでも、私が穿いたパンツをお母さんが穿くところは想像できない……」
と、みんなが思ったかどうかも定かではない(ここはひとつ、思わなかったことにしておこう)。この際、背に腹は代えられないのだ。
少々趣味に合わなくても、ノーブラ、ノーパンよりはずっといい。
「これで更衣室から出られる」
やっと、M先生の授業が受けられる。早く行かなきゃ……。
長女は、はやる気持ちを抑えつつ、セーラー服のリボンを結んだ。はやく、はやく授業に……。
しかし……。
その直後、長女の耳に、授業終了を告げるチャイムの音が、無情にも鳴りひびいたのである。
次回に続く……(笑)。