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露と答へて  作者: 夜露
10/23

古きものなれど

 現在、長女が使用しているギターは、オーダーメイドである。

 と言っても、それほど高価なものではない。演奏用ギターのオーダーメイドの中ではもっとも安いと言われる金額で(税込で30万円)、長女の先輩たちは、その倍以上はすると言われる高額なギターを使用している人がほとんどなのだから、音楽のなんとお金のかかることかと、貧乏庶民の私には溜息が出るばかりだ。


 くだんのギターを造ってもらったのは、長女が高校2年の夏。地元のギター工房に製作をお願いし(もちろん、代金は大まけにまけてもらった)、注文から完成までには約3カ月を要した。

 ただし、「もっとも安い価格」と言えども、そこはオーダーメイド。手の大きさから腕の長さまで採寸し、ネックも長女の手に馴染むように造られている。そして、十八世紀風の内部構造もまたしかり。30万円という金額は、決して安くはない買い物だったが、一般に売られている十八世紀ギターなど、とてもではないが高すぎて買えない我が家にとって、とてもありがたい金額だった。長女もお気に入りの一本である。納得の価格と言えるだろう。


 例えば、練習用のクラシックギターであれば、安いものなら3万円ほどで売られている(もちろん、長女がギターを始めた頃に、練習用のギターも買った)。しかし、その音色たるや、演奏用のギターとは比べものにならない(当然である)。しかも、演奏技術が上達すれば、やはり音色のいいギターが欲しくなるのも人の常。指導者たちも、できればいいギターをと薦めたい……わけなのだな。

「お母さん、お嬢さんの演奏は、非常に上達していて、コンクール出場を目前にした今、もう、練習用のギターなんかではいけません。ぜひ、演奏用のギターを……」

 ただし、高い買い物ですから、無理にとは言えませんが……、と申し訳なさそうに付け加える先生の言葉が、その時の私には、悪魔からの通達のように聴こえた。

 うちには、そんな経済的余裕はないんだけど……。

 買ってやりたいのは山々なのだが、いかんせん、金はない。むしろ、生活を考えると、こっちが30万を借りたいぐらいだった。断りたい気持ちと、買ってやりたい気持ちが、せめぎあう。そんな私の気持ちを察してか、長女も遠慮して「ごめん。買わなくていいよ」なんて口にする。うーん、親としてはやっぱり買ってやりたい。何とかならないか……。

 主人と二人、さんざん思案した結果、それとなく祖父(主人の父)に「ギターを買ってと、先生から言われた。どうしよう?」と話をしてみたのである。すると、話を聞いた祖父が、なんと、半分お金を出してくれるというではないか! 嗚呼! ありがとう、おじいちゃん!(いや、初めから、おねだりするつもりだったんだけど) 

 かくして、ギターを注文する方向で、めでたく話は決着したのである。まったく、持つべきものは、お金を持っているじいちゃんばあちゃんであると、この時私ははつくづく思った(いや、冗談です。元気であればそれでいいです)。おかげで、長女は更なる上達を目指し、音大に入学したのであった(結果的には、これが更なる経済的危機を招いたのだが……まあ、子供のためだから、良しとしよう)。


 さて。そんな長女が高校でギター部に入部する際、経済的理由とは別に、一つだけ問題があった。

 それは、長女が入学したのは高校の普通科ではなく、いわゆる音楽科。そこにピアノ専攻で入学していたというところだった。音楽科では、毎日二時間、ソルフェージュや音楽史、聴音、視唱など、音楽に関する授業があり、そのうち週に六時間は専攻科目の授業があった。つまり、ピアノは単位においても絶対で、何より、長女にとっては、ピアノこそがこの高校に入学した一番重要な目的だったのである。

 

 そして、ここでもう一つ説明しておかねばならないのが、「爪」についてである。

 ご存知の方もいるかもしれないが、ピアノを演奏するのに、長い爪はご法度なのだ。爪が長いと、鍵盤を叩くときに爪が当たってコツコツ音がするし、指だって痛い。爪が当たって指が滑ることだってある。だから、名だたるピアニストたちは、演奏会でどれほど豪華なドレスを着飾ろうとも、みんな短く爪を切っているし(マニキュアぐらいは塗っているかも)ばっちり装飾を施した長いネイルで演奏している人なんて見たことがない。「爪は短く切る」、これが、ピアノを演奏する時の鉄則と言えるのだ。


 しかし、この「爪を切る」と言うところが、クラシックギターの演奏においては、問題であった。

 普通、ギターと聞くと、大多数の人が、ピックでジャカジャカ弦を掻きならすところを想像されるかも知れない。エレキギターはもちろんのこと、アコースティックギターもピックを使って演奏したりする。

 だから、私は当然のごとくクラシックギターもピックを使ったりするのだろうと思っていた。しかし、それは大きな勘違いで、そのことを知ったのは、長女がギター部に入部したいと言いだしてから。

 そう、なんと、クラシックギターの演奏では、ピックを使用しないのである。しかも自分の、伸ばした爪で弦を弾くと言うではないか。

「弦を押さえる左手は爪を切ってもいいんですが、弦を弾く右手は、爪を伸ばしていないと、ちょっと無理ですね……」

 つまり、爪を伸ばすと、ピアノ演奏に不向きになり、かと言って、爪を切ってしまうと、今度はギターが演奏できないというわけである。長女は保育園の時からピアノを習っていて、ピアノ専攻でこの高校にも入学した。だから、ギター演奏のために爪を伸ばしたのでは、本末転倒もいいところだ。

「これじゃあ、ギター部への入部は諦めるしかないわね」

 当然のごとく、話を聞いた長女も私も、そう結論を出しかけていた。

 ところが……。

 ギター部顧問のM先生は、簡単には諦めてくれなかったのである。

 なにしろ当時のギター部は、部員わずかに4名と、「部」から「同好会」に降格という危機にさらされていた。部員4人の「同好会」だと、学校からは部費が支給されない。しかし、部員が5人になれば「部」として認められ、学校から部費も支給される。誰が何と言っても、この差は大きい。先生も部員獲得に必死だったはずである。

 まあ、M先生にとっては、もちろん、それだけの理由ではなかったとは思うのだが……。部の活性化だとか何だとかいう理由もあっただろうし、何よりギターを教えるのが大好きな先生だ。そしてもちろん、この時の先生の熱意には、今も親子で感謝している。


 そんなこんなで、M先生から苦肉の策とも言える提案があったのは、長女の高校入学から約一週間後。長女が学校から帰宅する前に、M先生が我が家に電話を掛けてきたのだった。

「お嬢さんの入部の件ですが、指頭奏法でなら、爪を伸ばさなくても演奏ができます」

 弾んだ声でM先生はそう言った。だが、

「指頭奏法?」

 ギターを爪で弾くなんてことすら知らなかった私にとっては、指頭奏法も当然、初耳。

「何ですか、それ?」

 問いかける私に、先生は実に丁寧に説明したくれたのである。

 M先生によると、この指頭奏法というのは、中世、十八世紀ごろの宮廷音楽が盛んだったころ、ギター演奏でよく用いられていた奏法で、爪ではなく、指先で弦を弾く演奏法であるという話だった。

「指頭奏法だと、爪で弾く音とは若干異なってきますし、トレモロなどは困難ですが、バロック期や古典派の楽曲などであれば、指頭奏法でも充分に演奏できます。上達すれば、コンクール出場なども夢ではありません」

 おお、さすがは音楽の先生。知識は凡人の比ではない。そかし、

「えっ? トレモロ、と、言いますと?」

 専門的すぎて、無知な私にはよくわからなかった。

「トレモロと言うのは、弦を小刻みに弾いて演奏する奏法です。タレガの『アルハンブラの想い出』などが、トレモロを活用した曲としては有名ですが……」

「はあ……」

 タレガ……って、誰やねん、ソレ。知らんがな――とは、思ったが、さすがに口には出しにくい。なので、

「あの。それで、娘はどう言ってますでしょう?」

 一番肝心なことを私も質問した。

「娘が入部したいと言っているようでしたら、親としては何も異存はないのですが」

 すると、

「お嬢さんも、入部を希望されてます」

 M先生のさらに弾んだ声が受話器から聞こえてきた。

「ぜひ、入部していただきたいと思っております」

 言われて私も、

「でしたら、よろしくお願いします」

 この先生なら、きっと間違いない。

 何故かそんな気持ちで、そう挨拶をしたのであった。


 さて、長くなるのでこの先は割愛するが、現実はそれほど簡単ではなかった。ピアノとギターの両立は口で言うほどたやすくはなく、紆余曲折のオンパレード。ギターを諦めろと言われたことも一度や二度ではなかったし、長女はよく頑張ったと、いや、いまだ頑張っていると、我が娘ながら、褒めてやりたいとよく思う(親バカと言ってください)。

 しかし、苦難とはまた、人を成長させるものでもある。長女が成長できたのも、数々の苦労があったおかげと言えるかもしれない。


 そんなわけで、現在長女が使用しているギターは、指頭奏法に向いた十八世紀風の仕様になっている。早い話が、指頭奏法による演奏が、よく響く構造になっているわけなのだ。

 バロック期や古典派と言うと、バッハやヘンデル、ハイドンなどが有名だろうか。高校の時コンクールでエントリーしたのはバッハの「リュート組曲」のギターアレンジ。近現代の楽曲なども演奏したし、最近では大学のピアノ指導S先生の「せっかく大学まできたんだから、爪を伸ばしてギターを演奏してみない?」というお言葉に甘えて(本当に理解のある先生です)、時々、ちょっと爪を使って(伸ばして)演奏もしている。

 長女いわく、

「爪を使うと、私のギターの音が悪くなったような感じがする」

 とか、なんとか。

 さすがは、十八世紀風オーダーメイド。爪にはなじまぬ音であったかと、親子で唸ってしまったのは言うまでもない。


 とまあ、ことほどさように、音楽というのは、本当に奥が深い。

 経済的には困窮を極めているが、進学させてよかったと、私は心から思っているのであった。

 

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