第9話 : ルナリウスの翼膜 後編
解体小屋は、領都の外れにあった。
石造りの塀に囲われ、門は常に開け放たれている。
血の匂いと、乾いた風。
アルベールの工房とは似ても似つかないが、魔物が素材になる前に通る場所だ。
彼は足を止め、短く息を整えた。
(ここが、ギュンターさんの作業場か……)
中へ入ると、作業台がいくつも並び、骨や皮などの部位ごとに分けられている。切り口は揃い、無駄がない。解体というより、整理に近い印象だった。
「見学か?」
背後から、低い声が掛かる。
振り返ると、作業用の前掛けを着けた男が立っていた。年は四十前後。無精ひげは整えられており、視線だけが静かに鋭い。
「アルベール・ルリエです。レイドルフ様に、こちらを紹介されました」
男は一瞬だけアルベールを見てから、頷いた。
「ギュンターだ。……翼膜の件だな」
アルベールは、持参していた包みを差し出した。黒い薄膜が、わずかに揺れる。
「縫えば裂け、魔力を通せば吸われます。布として扱う前提そのものが、違う気がして」
ギュンターは翼膜に触れなかった。視線だけで、縁と厚みを追う。
「それで正しい」
即答だった。
「そいつは、布じゃない」
アルベールは、わずかに息を詰める。
ギュンターは作業台の一つを指さした。
そこには、翼を持つ魔物の解体途中の個体が広げられている。体躯はやや小さく、翼の形も異なるが、膜の質感はよく似ていた。
「ヴェスティリウスだ。ルナリウスに近い種だな。
その翼膜の性質は、いま言ってたのと近い」
ギュンターは、翼を少し持ち上げながら続ける。
「ルナリウスみたいに目眩ましはできないが、魔法が効かない。
物は試しだ。外に出よう」
◇ ◇ ◇
二人で解体小屋の外へ出ると、日差しが少し眩しかった。
ギュンターは、先ほどのヴェスティリウスの翼膜を手に持っている。
「ルナリウスのものとは違って、ヴェスティリウスのは薄い灰色なんですね」
「種が違うってのもあるが、性質も少し違うからな」
ギュンターは短く答え、翼膜を広げて地面に置いた。
少し離れて振り向いた瞬間、小さな火の玉を放つ。
火の玉は翼膜に触れると、弾かれもせず、打ち消されもしなかった。
そのまま翼膜の中へと沈み込み、輪郭を失っていった。
消えたように見えるが、爆ぜる気配も、反動もない。
「……沈んでいく」
アルベールが呟く。
「こいつは、翼膜で魔力をいなす」
ギュンターは翼膜を拾い上げ、揺らしながら言った。
「吸ったり、受け流したりだ。
正面から受け止めるんじゃない」
アルベールの脳裏に、工房での失敗が蘇る。
「縫おうとすると……針や糸の魔力が吸われる……?」
ギュンターは視線を向けただけで、肯定した。
「お前の針と糸は、魔力を通すためのものだろう」
翼膜を指で弾く。
「それごと、食われてる」
アルベールは慌てて鞄を開き、ノートを取り出した。
走り書きで、言葉を重ねていく。
縫い針と糸そのものが、噛み合っていない。
魔力を通す構造が、逆に邪魔をしている。
ギュンターは、その様子を一瞥してから、付け足すように言った。
「ついでに言うと、ルナリウスの翼膜は魔力だけじゃない。光も吸う」
アルベールが顔を上げる。
「あの黒さは、光を逃がさないからってのもあるな」
それだけ言って、ギュンターは翼膜をアルベールに放り投げる。
アルベールは、慌てて受け止めた。
「やるよ。
こいつは割と手に入りやすいから、実験にはちょうどいいだろ」
違いは、はっきりした。
ヴェスティリウスは魔力。
ルナリウスは、さらにその先。
だが、問題の核心は同じだ。
アルベールは、翼膜から目を離さなかった。
◇ ◇ ◇
翼膜を手にしたまま考え込んでいると、門の方から馬車が止まる音がした。
門から姿を見せたのは、レイドルフとリリアーヌだった。
「ギュンター、ちょっといいか」
レイドルフが声をかける。
「若様」
ギュンターは、ゆっくりと歩み寄る。
「こちらが妻の、リリアーヌだ」
リリアーヌは一歩前に出て、にこやかに挨拶した。
「はじめまして。リリアーヌ・ド・リュミエールです」
「……どうも。ギュンターです」
短い挨拶のあと、レイドルフはそのまま仕事の話を始めて、工房の中へ入っていった。
討伐の段取り、素材の引き渡し、次の予定。
一方で、リリアーヌはアルベールに声を掛ける。
「翼膜のほうは、いかが?」
問いかけは淡々としている。
「……正直に申し上げて、まだ難航しております」
アルベールは、言い訳をせずに答えた。
「そう。大変そうね」
他人事のような口調だった。
責める色は、ない。
「ギュンターさん曰く、ルナリウスの翼膜は魔力を吸収してしまうようなんです。そんな素材は初めて扱うので、もう何が何だか」
リリアーヌは、アルベールの表情を見て少し微笑んだ。
「でも、王都で見かけたときよりも楽しそうね」
アルベールは少しはっとして、照れ臭そうに答えた。
「……確かに、先日のトルヴァンの腕当てもそうですが、自分のやりたいことができているような気がしています」
リリアーヌが日傘を少しずらして、空を見上げた。
「昨夜、夜空を見ていて思いついたのだけれど、ショールに美しい夜空を閉じ込められないかしら」
「夜空を?」
「えぇ。ここって王都よりも、星空が良く見えるでしょう?
だから、ショールでそれを表現したいの。わたくしが動いたときに、夜空の星が流れるみたいにきらめきが揺れてほしいのよ」
説明ではない。
完成形の指示でもない。
ただの、感覚だ。
仕事の話を終えて、レイドルフと戻ってきたギュンターが、思わず苦笑した。
「……無茶なことを言うお姫さまだ」
冗談めかした一言だった。
だが、アルベールの中で、リリアーヌの言葉が引っかかった。
夜空の中の、きらめき。
流れるように、揺れる。
(……縫い目が、あってはいけない)
縫えば線ができる。
線があれば、流れは途切れる。
ショール全体を、一枚の膜として扱う必要がある。
(縫うんじゃない……)
アルベールは、思わず呟いていた。
「……貼る?
圧着……?」
胸の奥で、何かが静かにつながる。
アルベールは顔を上げた。
その目に、再び光が戻っている。
答えは、まだ形になっていない。
だが、進む方向だけは、はっきりと見え始めていた。




