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第8話 : ルナリウスの翼膜 前編

 魔物の襲撃から、数日が経っていた。

 討伐後の慌ただしさは落ち着き、辺境伯領の領都には、いつもの実務的な時間が戻りつつある。


 アルベール・ルリエもまた、その一人だった。


 ヴァレンティーヌ公爵家の出資により、領都の一角に設けられた新しい工房。

 石壁はまだ新しく、床には削り屑の匂いが残る。織機や大型の設備はこれからだが、素材の加工と試作を行うには十分な環境が整っていた。


 その日の午前、アルベールは辺境伯邸へ呼び出されていた。


 案内されたのは、応接室だった。

 待っていると間もなく、リリアーヌとレイドルフがやってきた。


 アルベールが立ち上がって一礼すると、リリアーヌが視線を向けた。


「よく来てくれましたわ、アルベール。お掛けになって」


「失礼いたします」


 腰を下ろすと、すぐにレイドルフが口を開いた。


「工房は、もう使える状態か」


「はい。大がかりな設備はこれからですが、素材の加工と試作程度であれば問題ありません」


 その様子に、レイドルフは短く頷く。


「なら、話が早い」


 彼は、アルベールをじっと見据える。


「討伐後に出る魔物素材を、優先して回してほしいという話だったな」


 アルベールは背筋を正した。


「はい。この地の素材は、王都では得られないものばかりです。職人として、これ以上の環境はありません」


 そこで一拍置き、言葉を選ぶ。


「対価として、装備の製作を提案いたします。魔物素材を使った、実戦向けの装備を」


 レイドルフは考え込む様子を見せなかった。


「構わない。必要な素材は回そう」


 あまりにも迷いのない返答に、アルベールは内心で息を詰める。


「ありがとうございます」


 深く頭を下げると、今度はリリアーヌから声が掛かった。


「次は、わたくしからの依頼ですわ」


 そう言うと、控えていた侍女のコレットが、布にくるまれたものをテーブルに置いた。


 布をほどいて現れたのは、黒い薄膜だった。

 光を吸い込むような漆黒。にもかかわらず、細かい宝石のような粒がキラキラと揺らめき、視線を引きつけて離さない。


 リリアーヌは指先で軽く持ち上げる。

 薄いのに、布のようには落ちない。空気を含んで、わずかに浮く。


「このルナリウスの翼膜で、ショールを仕立てられませんこと?」


 アルベールは即答できなかった。


 触れてもよいかと視線で問うと、リリアーヌが小さく頷いた。

 アルベールは指を清め、慎重に翼膜へ触れる。


 ひやりとした感触。

 滑らかだが、指の上を逃げるようにすり抜ける。


「……簡単では、なさそうです」


 正直な感想だった。


 リリアーヌは、表情一つ変えない。


「難しいからこそ、美しく仕上げる価値がありますわ」


 依頼は成立した。

 説明も、条件提示も、それ以上はない。


 アルベールは翼膜を受け取り、胸の奥に小さなざわめきを覚えた。


 恐れではない。

 期待でもない。


(――これは、手強い)


 だが同時に、職人としての感覚が告げていた。

 この素材を形にできたなら、自分は一段、先へ行ける。


◇ ◇ ◇


 工房へ戻ると、アルベールは直ちに製作に取り掛かった。


(まずは……布として扱ってみるしかないか)


 いつも通りの手順で極細の針を選び、糸を通し、端を揃える。


 針先が翼膜に触れた瞬間、わずかな抵抗があった。

 だが、押し込むとあっさりと通る。


(通る……?)


 縫い始めた、その次の瞬間だった。


 ――すっ。


 音もなく、縫い目に沿って翼膜が裂けた。

 引き裂いた感触はない。ただ、最初からそこに線が引かれていたかのような、迷いのなさ。


 アルベールは思わず手を止めた。


「……裂けた、というより……切れた、か」


 糸を抜き、断面を見る。

 繊維が乱れた様子はなく、滑らかすぎるほどだった。


 次に魔力糸を使ったが、流した魔力は糸から抜け落ち、縫い目だけが沈むように黒く変色した。

 魔導織機も試したが、針が折れ、最後には破片が作業台に散った。


 翼膜は、無傷だった。


 アルベールは、ゆっくりと息を吐いた。


「布の作法が……通じない」


 縫えば裂け、魔力を使えば吸われる。


(素材の性質が、こちらの前提を拒んでいる)


 しばらく翼膜を見つめてから、彼はそっと布を掛けた。


 今は、これ以上触るべきではない。

 自分の集中力を守る必要があった。


(こういう仕事は、自分の機嫌を上手くとるのが大事だって、師匠も言ってたし)


 アルベールは、別の木箱を引き寄せる。

 箱の中に収められていたのは、亀の甲羅のようなものだった。


 亀に似た中型魔物――トルヴァン。その硬い外殻。

 手に取ると、見た目ほど重くない。

 軽く叩いてみると、鈍い音だけが返り、衝撃が掌に残らなかった。


(衝撃を……逃がしているな)


 そこからは早かった。

 いくつかのパターンを設計し、試作を繰り返す。


 完成したのは、前腕を覆う簡易防具だった。

 外殻をいくつかの大きさに割って縫い合わせ、関節部には柔らかい革を合わせて、可動域を殺さないように調整した。


 革紐を締め、腕を曲げる。

 拳を握り、振る。


「これなら……実戦で使えるんじゃないだろうか」


 アルベールは、腕当てを丁寧に磨き、木箱に収めた。


◇ ◇ ◇


 数日後。


 再び辺境伯邸の応接室で、アルベールは木箱を開いていた。


「トルヴァンの外殻を素材にした、腕当てです」


 レイドルフは腕当てを取り、即座に装着する。

 肘を曲げ、剣を振る仕草をする。

 リリアーヌは、静かに見守っていた。


「……軽いな」


 廊下で警備をしていた兵士を呼び、斬りつけるよう指示した。

 鈍い音が響いたが、レイドルフの表情は変わらない。

 突飛な行動に、アルベールはやや目を丸くした。


「強度も申し分ないし、なにより衝撃が少ないな」


「外殻が、衝撃を逃がします。腕に残る負担が減るはずです」


 レイドルフは、満足げに頷いた。


「他の工房にも製作方法を共有しても良いだろうか?

 もちろん、相応の報酬も支払おう」


「はい。問題ありません」


「ありがとう。改めて、契約書を用意しておく」


 契約の話が一段落したところで、アルベールが切り出した。


「もう一つ、相談があります」


 視線の先には、リリアーヌがいる。


「ルナリウスの翼膜についてです。……正直に申し上げて、扱いきれていません」


 言葉を選びながら、工房で起きたことを簡潔に伝える。

 縫えば裂けること。魔力を通せば吸われること。道具が先に壊れること。


 説明を終えても、リリアーヌの表情は変わらない。


 リリアーヌは、レイドルフがはずした腕当てに視線を落とす。


「トルヴァンと言ったかしら?

 そちらは問題なく加工できたのよね」


「そうですね。亀の甲羅とあまり変わらないので、扱いやすかったように思います」


 リリアーヌは再びアルベールを見た。

 アルベールは、はっとした。


「そうか……。自分はまだ、ルナリウスや近しい種のことを何も知らないんだ」


 アルベールの独り言に、レイドルフが反応した。


「ルナリウスのことなら、私や兵士でもいいが、解体の現場にもっと詳しい者がいる」


 アルベールが顔を上げる。


「レイドルフ様よりも、ですか?」


「ああ。討伐後の魔物を解体し、素材として仕分けている男だ。

 魔物の性質についても、よく把握している」


 そう言って、名を告げる。


「ギュンター・ヴァイス。

 解体と素材管理の責任者だ。必要なら、私から話を通そう」


「……ありがとうございます」


 アルベールは深く頭を下げた。


「楽しみにしているわ」


 芳しくない進捗報告だったというのに、リリアーヌはどこか上機嫌そうだった。

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