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第7話 : 辺境伯邸 後編

 石造りの避難室に、最低限の魔導灯が灯されている。

 壁際や柱の影、床の空いた場所――人々はそれぞれ、思い思いの位置に身を落ち着かせていた。


 子どもを抱いて背中を撫でる親。

 壁に背を預け、目を閉じて休む高齢者。

 誰も騒がないが、完全に気を抜いているわけでもない。


(……落ち着いてはいるけれど)


 リリアーヌは、少し離れたところで様子を見ていたイザベラ夫人に視線を向け、声を落とした。


「こうした避難は……どのくらいの頻度であるのですか?」


 イザベラ夫人は少し考え、周囲を一瞥してから答える。


「時期と相手次第ね。

 月に一度ほどで済むこともあれば、続く時は週に一度ということもあるわ」


「……随分と幅がありますのね」


「ええ。あとは空を飛ぶ魔物が出ると、どうしても長引くわね。

 外へ出られず、数日……時には一週間ほど、こちらで過ごすことも」


 その言葉を聞いても、周囲の人々の様子は変わらない。

 誰かが顔をしかめることも、ざわめきが広がることもなかった。


(……それが当たり前、ということですわね)


 避難室は、彼らにとって特別な場所ではない。

 この土地で生きるために、繰り返し日常的に使われてきた空間なのだ。


 リリアーヌは静かに息を整え、改めて周囲を見渡した。


◇ ◇ ◇


 避難室の一角で、使用人たちが保存食の準備を進めていた。


 木箱の蓋が開けられ、中から硬そうなパンや干し肉が取り出されていく。

 配る分とは別に、いくつかが脇へとよけられているのが目に入った。


 リリアーヌは、その様子を少しの間、黙って見ていた。


「……あちらは、どうなさったの?」


 声をかけると、近くにいたハインリヒが即座に応じる。


「こちらは使えませんので。傷んでおります」


 淡々とした口調だった。

 言われてみれば、よけられたものは色が悪く、乾き方も不均一だ。


「定期的に確認はしているのですが……。どうしても、こうしたものが出てしまいます」


「こちらの保存食は、どのくらいの頻度で入れ替えていらっしゃるのかしら」


「避難があった後に点検し、使った分と傷んだ分をまとめて補充しております。それ以外では、基本的に触れません」


 なるほど、と心の中で頷く。


(……使うのは非常時だけ。普段は、眠ったまま)


 リリアーヌは、よけられた保存食にもう一度目を向けてから、静かに口を開いた。


「でしたら……少し考え方を変えても、よろしいかもしれませんわ」


 ハインリヒが視線を向ける。


「こうした保存食を、普段の食事に少しずつ混ぜて使うの。

 古いものから使って、その分を補充する形にすれば……」


 言葉を切り、反応を確かめる。


「傷んで捨てる量も減るし、非常時でも普段口にするものが食べられるという安心感が生まれるわ」


 ハインリヒは、箱の中身と、脇に避けられた保存食を見比べた。


「……確かに」


 低い声で、そう漏らす。


「管理の手間は、増えませんか?」


「むしろ、減ると思いますわ。いつ入れたかを細かく覚える必要もなくなりますし」


 しばしの沈黙の後、ハインリヒは静かに頷いた。


「理にかなっております。これまでは備えは使わぬものと考えておりましたが……」


「無理に急ぐ必要はないわ。後で、落ち着いてご検討なさってくださいませ」


「ええ。その価値は、十分にありそうです」


 保存食の箱が片づけられ、避難室は再び静けさを取り戻した。


 人々はそれぞれの場所に身を落ち着け、待つ時間へ戻っていく。

 誰も慌ててはいない。だが、長く動かずにいる気配が、空間に溜まり始めていた。


 リリアーヌは、その様子を眺めながら、ふと胸の奥がざわつくのを感じた。


(……前にも、ありましたわね)


 前世の記憶。大きな災害。


 さっき唐突に思い出した『ローリング・ストック』のことは、その出来事がきっかけで知ったのだった。


 避難所で、何時間も、何日も待つことになる。

 生き延びる準備は、物だけでは足りない。


(……他にも、健康を害する要因がありますわね)


 彼女は、隣に控えていたコレットへ、さらに声を落として言った。


「コレット。あちらにいる方に、いつもやっている足首のストレッチを教えて差し上げて」


 目線の先には、すぐ近くで足をさすっている年配の女性がいた。

 コレットはすぐに意図を理解し、頷く。


「承知いたしました」


 彼女は屈み込み、穏やかな声で年配の女性に話しかけた。


「こちらにいらっしゃる間、時々で結構ですので、つま先を上げ下げしたり、足首を回してみてくださいませ」


「足首を……?」


「はい。長く同じ姿勢ですと、血の巡りが悪くなって体調を崩してしまいます」


 半信半疑のまま、女性はゆっくりと足を動かした。

 つま先を上げ、下げ、足首を小さく回す。


 その様子を、すぐ近くで見ていた別の者が、ちらりと視線を向ける。

 横になったまま、同じように足先を動かしてみる。


 特に声を掛け合うわけでもない。

 ただ、目に入った動きを、真似しているだけだ。


 避難室の中に、わずかな変化が生まれていく。


 大きな動きではない。

 誰かが指示したわけでもない。


 けれど、動かずに張っていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。


 リリアーヌがその小さな変化を静かに見守っていると、背後から控えめな足音が近づいた。


「……落ち着いているのね」


 柔らかな声がかかった。


 リリアーヌは振り返って、夫人へ視線を向ける。


 イザベラ夫人は、言葉を選ぶように一拍置いてから、続けた。


「怖くは……ないのかしら?」


 その問いに、近くの数人がわずかに顔を上げた。

 聞き耳を立てているのが分かる。――皆が同じことを思っていたのだろう。


 リリアーヌは、意図が分からないといったように、ほんの少しだけ首を傾げた。


「ここは日常的に魔物が来る土地ですもの。今日だけではないわ」


 イザベラ夫人が念を押すように言う。

 リリアーヌは少し考えて。


「レイドルフ様がすべて倒して守ってくださるのでしょう?

 ならば、ここで待っていればいいだけではありませんか」


 一瞬、場が静まった。


 イザベラ夫人が目を瞬かせる。

 近くにいた使用人たちも、互いに視線を交わす。

 領民の中から、小さく息を吐く音が聞こえた。


「……なるほど」


 イザベラ夫人は、やや間を置いてから、静かに言った。


 それ以上、問いは続かなかった。

 だが、避難室の空気が、ほんのわずかに変わったのは確かだった。


 慌てる必要はない。

 ただ、信じて待っていればいい。


 その単純な前提が、今しがた、はっきりと共有されたのだった。


◇ ◇ ◇


 やがて、低く響く合図が届いた。


 避難解除を告げる鐘だ。

 避難室に満ちていた緊張が、その音を境に、静かにほどけていく。


 使用人の案内に従い、避難していた人々は順に地上へ戻った。

 誰も急がず、誰も立ち止まらない。何度も繰り返してきた動きなのだろう。


 リリアーヌも、コレットと並んで廊下を進む。


「外の様子は……まだ、分かりませんわね」


 独り言のように呟くと、コレットが小さく頷いた。


「そうですね。今は、レイドルフ様たちの帰還を待ちましょう」


 それから、しばらく経って。


 中庭へ通じる搬入口のほうが、にわかに慌ただしくなった。

 兵士たちが戻ってきたのだ。鎧には泥と血の痕が残り、空気には微かに鉄の匂いが混じっている。


 同時に、荷が運び込まれ始めた。


 討伐後の魔物素材――

 角、甲殻、毛皮。王都では高級素材として見かけたものもある。


 その中に、ひときわ目を引くものがあった。


 黒く、薄い膜。

 風を受けて、布のように揺れている。


 リリアーヌは、思わず足を止めた。


「……綺麗」


 声は小さく、独り言に近い。


 近くにいた兵士が、作業の手を止めずに応じる。


「それ、ルナリウスっていう魔物の翼膜っすね。

 その翼のせいで、夜になると見えにくくなっちまうんすよ」


 確かに、見ていると吸い込まれそうになる独特の漆黒。

 ところどころキラキラと光り、まるで夜空を閉じ込めたようだった。


 リリアーヌは、揺れる膜から視線を離さない。


「この翼膜、少し分けていただけるかしら」


 ルナリウスの翼膜は、布のようにたゆたいながら、光を飲み込んでいた。

 それで何ができるか、リリアーヌは考えずにはいられなかった。

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