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第6話 : 辺境伯邸 前編

 翌朝。

 石造りの邸宅に差し込む光は淡く、王都のそれよりも明らかに冷えていた。


 身支度を整えたリリアーヌは、コレットを伴い、辺境伯家に長く仕える執事のハインリヒの案内で館内を回っていた。

 足音を抑えた静かな歩調で、回廊を進んでいく。


「こちらが応接用の客間でございます」


 扉が開かれると、暖炉にはすでに火が入っており、室内は十分に暖められていた。

 それでも、リリアーヌは一歩足を踏み入れた瞬間、違和感を覚える。


(……空気が動いていませんわね)


 ゆっくりと息を吸う。

 温度は申し分ないが、どこか息が重い。


(閉め切った部屋は、息と熱が溜まりやすい。新しい空気がなければ、身体も思考も鈍りますわ)


「寒さ対策は万全ですけれど、少し空気が溜まっていますわね」


 あくまで感想として口にすると、執事は小さく頷いた。


「この土地では、寒さを避けることが最優先でございますので。ほとんどの部屋を締め切っております」


「えぇ、理解できますわ。ただ、人が集まる場所ほど定期的に換気して、外の空気を入れたほうがよろしいですわね。使い古した空気を外へ出さないと、気分も身体も重くなりますもの」


 ハインリヒは少し考え込むように眉を寄せた。


「確かに……会合の後など、具合を崩す者が出ることもございます」


 次の部屋へ移る。


(……空気が重いだけでなく、乾燥していますわね)


 唇がわずかに張り、目の奥が少し痛む。


(空気が乾きすぎると、喉や目が先に弱る。身体を守る粘膜が鈍くなって、免疫力が下がってしまうわ)


「こちらも暖炉を常に焚いておりますので、どうしても乾きやすく……」


「暖かさは十分ですわ。ですが、この乾燥は別の問題です」


 声音を変えず、淡々と続ける。


「喉や目が乾くと、体は外からの刺激に弱くなります。肌が荒れやすくなるのも、同じ理由ですわ」


(現代知識無双……と呼ぶにはちょっと弱いかしら)


 頭の中で、少し自嘲する。


「ですから、空気にもう少し水分を含ませる必要がありますわね」


 コレットが小さく頷く。


「加湿、でございますね」


「ええ。王都にいた頃、同じ悩みを商会の方に話しましたら、空気中に細かく水分を行き渡らせる魔導具を作ってくださいましたの」


 水魔法を応用した簡易的な加湿器だ。特別製の小さなものを、今も自室で使っている。


「ギルバートが辺境へ到着しましたら、いくつか大型のものを発注しましょう。部屋ごとに置けば、ずいぶん楽になりますもの」


 換気と加湿。どちらも欠かせない。

 リリアーヌは邸内環境の改善を誓いつつ、静まり返った回廊を進みながら、案内の続きを受けた。


◇ ◇ ◇


 回廊を進んでいた、その時だった。


 ――ゴォン。


 鈍く長い響きが、石造りの邸全体に渡って震えた。

 どこか高い場所で打ち鳴らされた、金属の警鐘。壁や床を伝って、遅れて胸の奥に届くような音だった。


 音が消えきる前に、館内の気配が変わる。


 声は上がらない。

 だが、使用人たちが一斉に動き出した。


 扉が開閉する音が遠くで重なり、足音が増える。

 慌てた叫びはないのに、空気だけが鋭く締まっていく。


「……警鐘でございます」


 ハインリヒが短く告げた。説明はそれだけ。

 それでも周囲の者は迷わない。誰かが誰かに指示を仰ぐ気配すら薄い。各々が「自分の手順」に戻っていく。


(……これが、この家の当たり前なのね)


 リリアーヌは、歩みを止めないまま理解した。


「こちらへ」


 ハインリヒに促され、進路が変わる。

 先ほどまでの客間を巡る回廊ではなく、装飾の少ない実用的な通路へ入った。壁は厚く、窓は小さい。外の様子を見せない造りだ。


 前方から、別の使用人が小走りで近づいてくる。


「南側外縁に反応。数は未確認です」


「承知しました」


 短いやり取りのまま、その使用人は別の方向へ散る。

 情報は最小限で、しかし十分だ――そういう共有の仕方だった。


 角を曲がった先で、鎧の擦れる音がした。兵士たちが隊を作り、足早に通路を抜けていく。走りはしないが、歩調は明らかに戦時のそれだ。


 その列の先に、レイドルフがいた。

 外套を羽織り、剣帯を整えながら、迷いなく前へ進んでいる。


 一瞬だけ、視線が交わった。


 互いに立ち止まらない。

 言葉もない。


 だが、わずかに――

 レイドルフが顎を引き、リリアーヌもまた、小さく頷いた。


 それで十分だった。

 リリアーヌは余計な思考を切り離し、自分の歩調を整える。


 ここで重要なのは、正しさではなく流れだ。

 この家の動線と手順を乱さないこと。自分の身を守ること。


 通路の先で、空気がさらに引き締まった。

 階段の手前に立っていたのは、イザベラ夫人だった。すでに数名の使用人に静かに指示を出し、流れを途切れさせないよう手を配っている。


「リリアーヌ、こちらへ」


 呼び方も声量も落ち着いている。だが、迷いがない。


 階段は地下へ続いていた。幅は広く、段差は低い。

 人が増えていくのに、滞りが起きない。皆が小走りで足を運びつつ、互いにぶつからない距離を保っている。


(……動線が決まっている。だから速くても乱れないのね)


 リリアーヌは息を浅く整えながら、コレットと並んで下る。

 背後では、別の方向から合流してくる足音が増えた。領民だろう、使用人だろう、誰もが同じ方向へ吸い寄せられていく。


 地下の通路は短い。冷たい石の匂いが濃くなる。


 やがて前方に、厚い石壁に埋め込まれた大扉が見えた。

 両脇に立つ使用人が流れを途切れさせないよう腕で導いている。中へ続く暗がりから、ひんやりした空気が漏れていた。


(……ここが、避難室)


 言葉にせず、そう理解する。


 前へ、途切れない流れが続く。

 リリアーヌもその一部として、自然に歩幅を合わせた。


 リリアーヌは、避難室の中へ足を踏み入れた。

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