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第5話 : 辺境

 北へ向かう街道は、王都を離れるほどに荒れ、空気は次第に乾いて冷たくなった。

 馬車の窓外には、草木の少ない大地と風に削られた岩肌が続き、遠くの山脈には濃い霧がかかっている。


(……辺境らしくなってきましたわね)


 リリアーヌにとって何より大切な、自身の美の追求。

 その環境を維持するため、王都から二人の重要人物を連れて行くことにしていた。


 一人目は、アルベール・ルリエ。

 ウェディングドレスを仕立てたジェロームの一番弟子であり、若いながらも素材の扱いとデザインの両面で抜きんでた職人だ。

 ジェローム本人に同行を頼んだものの、王都を離れられないという理由で断られ、彼が最も信頼を置く弟子であるアルベールが選ばれた。


 今回の辺境入りは、アルベールにとっても新しい転機となる。

 ヴァレンティーヌ公爵家が出資し、彼は辺境に工房を構えることになったのだ。

 そのため、必要な道具や素材を積んだ馬車と共に、公爵家の護衛に守られながら、リリアーヌとは別の馬車で移動している。


 二人目は、ギルバート・コルトン。

 王都最大手「コルトン商会」のナンバーツーであり、リリアーヌが幼少期から贔屓にしてきた商会の窓口担当である。

 今回の辺境行きの打診にも即答で賛同し、商会としてリュミエール辺境伯領に新支部を設ける話が一気に進んだ。


 ギルバート本人はまだ王都に残っている。

 大量の物資と護衛を揃えるため商隊を編成中であり、準備が整い次第、数日遅れて辺境へ向かう予定だ。

 もちろんリリアーヌの美容用品や布地の補充も、すべてその商隊に任されている。


 馬車が大きく揺れた。

 窓の外で風が鳴り、山の斜面に黒い影が走る。


「……魔物の気配が近い。ここからは馬車の速度を落とす」


 レイドルフが視線を外に向けたまま、低く静かに告げる。


「そうですの。空気が一段と乾いてきたように感じますわ。到着したら、お肌の対策を早めにしておきませんとね」


 まるで散歩前の準備を語るかのような平然とした声音。

 レイドルフはほんの一瞬だけ視線をこちらへ向け、言葉を飲み込む。


「……動じないのだな」


「当然ですわ。どのような土地でも、美を整えるのに変わりはありませんもの」


 その言葉を境に、車内の空気がわずかに引き締まった。

 馬車の揺れと車輪の音は変わらないのに、外の乾いた冷たさだけがじんわりと伝わってくる。


(さて……辺境がどのような環境なのか、ようやく確かめられますわね)


 リリアーヌは軽く息を整え、ゆるりと背筋を正した。


◇ ◇ ◇


 峠を越えた途端、景色ががらりと変わった。

 雲の隙間から冷たい光が差し、荒野の先に、領都を守る巨大な外郭の砦が姿を現す。


(まあ……あれが辺境の玄関口ですのね。随分と堅牢ですこと)


 魔物の脅威に晒される土地なら、これほどの備えが当然なのだろう。美観は……さておくとして。

 砦の門を抜けると、小さな街並みが広がり、その奥には、砦ほどではないものの、やはり武骨さの残るリュミエール辺境伯家の屋敷が見えてくる。


 馬車が邸宅の門前に停まると、ほどなくして門が開き、冷気とともに、張りつめた空気が静かに流れ込んだ。


 馬車を降り、レイドルフのやや後ろを優雅に歩を進める。

 整列した兵士たちの視線が、レイドルフの次にリリアーヌへ向けられ、驚きがかすかに走った。


(……そんなに珍しいものを見るような目)


 王都の貴族とは雰囲気が全く異なり、飾り気のない兵士たちの視線は誤魔化しがきかない。

 その驚きは、王都で噂されるという公爵令嬢をようやく目にしたという、ごく素朴な反応にすぎなかった。


 レイドルフが軽く振り返る。


「館に入ろう。父も母も玄関で待っている」


 石畳を進み、副門を抜け、邸宅の玄関へ向かう。

 風が通り抜けるたび、空気が肌を刺すように冷たい。


(……本当に湿度が低い土地ですわね。適切な加湿方法を考えませんと)


 玄関ホールの扉が開く。


 玄関ホールに入ると、温かな灯りのもとで三人が待っていた。

 壮年の男と、落ち着いた気品をまとった夫人、そしてまだ背丈の伸びきらない少年。三人とも、どこかレイドルフと似た雰囲気を感じる。


 レイドルフが一歩進み出て、リリアーヌのほうへと視線を向けた。


「紹介しよう。父のヴィルヘルム、母のイザベラ、それから弟のオスカーだ」


 まず壮年の男が前に出て、短くも礼儀正しく頭を下げる。


「ヴィルヘルム・ド・リュミエールだ。遠路よく来てくださった、リリアーヌ殿」


 続いて夫人が、柔らかな笑みを浮かべてスカートの裾をつまむ。


「イザベラ・ド・リュミエールと申します。長い旅でお疲れでしょうに、ようこそおいでくださいましたわ」


 最後に少年が、少し緊張した面持ちで胸に手を当てた。


「オスカー・ド・リュミエールです。お会いできて光栄です、リリアーヌ様」


 三人それぞれの自己紹介を受けて、リリアーヌは姿勢を正し、ゆるやかに一礼する。


「改めまして、リリアーヌ・ド・リュミエールです。本日よりこちらでお世話になりますわ。どうぞよろしくお願いいたします」


 その所作の淀みなさに、ヴィルヘルムがわずかに目を細めた。


「……うむ。話には聞いていたが、堂々としたお方だ」


 イザベラも穏やかに微笑む。


「ええ、とても落ち着いていらして安心いたしましたわ」


 レイドルフは短く息を吐き、どこか満足げに頷いた。


「では、中をご案内しよう。部屋も支度してある」


 そう言って、新たな奥方を迎えた辺境伯家は、邸宅の奥へと歩みを進めた。


◇ ◇ ◇


 案内された部屋は、砦のような外観に似合わず、どこか温もりを感じさせた。

 石壁には厚手の布が掛けられ、暖炉には火がくべられ、乾いた冷気をやわらかく中和している。


「夕食は少し後になる。今日は特別に、採れたての肉を使わせているところだ」


 ヴィルヘルムが二人へ目を配りながら告げる。


(……肉。きっと脂身の多い部位ですわね)


 リリアーヌは迷うことなく、しかし失礼にならないよう穏やかな調子で答える。


「ご配慮ありがたく存じますわ。ただ……わたくし、少し食が細くて。特に、脂の多いお肉は量をいただけませんの」


 イザベラ夫人が、少し驚いたように目を開く。


「まあ……そうでしたの。他に軽い食事をご用意しましょうか?」


「いえ、どうかお気遣いなく。それより、折角の採れたてのお肉ですもの、使用人や兵士の皆さまに召し上がっていただくほうがよろしいですわ」


 それは、リリアーヌにとってごく当然の結論だった。

 美容上食べられないものを無理に受け取り残すより、必要な者が食べるべきという、単純で合理的な話。

 そして何より――彼女の中に根づく「もったいない」という感覚は、おそらく前世からの名残だ。


 しかし、その場には言葉にしづらい静けさが落ちた。


「ははっ。良い肉だからな、厨房で取り合いになるかもしれん」


 ヴィルヘルムが快活に笑う。

 イザベラ夫人は息をのむように小さく「まあ……」と呟き、

 オスカーは目を丸くしつつも、どこか感心したような表情を見せた。


 レイドルフは、リリアーヌの横顔へひとつ視線を送る。


(……おそらく、美容に良くないというだけで言ったんだろうな)


 けれど止めるべき言葉でもない。

 彼女はいつも通り、正直で、美を基準に物事を見ているだけなのだから。


◇ ◇ ◇


 その日のうちに、邸内ではささやかな噂が広がっていった。


「奥方様は質素なお食事を好まれるらしいわ」

「使用人や兵士の食事にも気を配られていたと聞いたよ」

「お綺麗なだけじゃなく、お心も優しいとか……」


 辺境入り前から注目の的だったリリアーヌに、さらに新たな評判が付け足されていった。


(今夜の肌のケアは、重点的にしたほうがよさそうですわ。外の空気だけでなく、邸内も暖炉で乾燥しがちですもの)


 当の本人は、誤解の広がりなど露ほども知らず、新しい環境でいかに美を追求するか──その一点だけに意識を向けていた。

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