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第3話 : 怪物辺境伯

 王国暦四五一年、四月のある朝。

 いつものように、侍女コレットが手際よくブラシを通していた。


 鏡に映る自分は──今日も完璧。

 プラチナブロンドの艶、滑らかな肌、どこから見ても非の打ちどころがない。


(……最高ですわ)


「最近、街に学生さんが増えているようですよ、お嬢様」


 コレットが楽しげに言う。


(ああ、学園の新学期。乙女ゲームで言えば、もう本編が始まっている頃……ですわね)


 とはいえ、リリアーヌにはもう関係のない世界だ。


「わたくしもあなたも、そんなに年は変わらないでしょうに」


「ふふっ。ですが学生さんたちは皆そわそわして見えますから」


 軽い雑談が続く。


 そこへ扉の外からノックが響いた。


「お嬢様、旦那様がお待ちでございます」


「えぇ。行きますわ」


 リリアーヌが自然に立ち上がるのに合わせて、コレットが裾を整える。

 他の侍女たちも続いて後方へ控えた。


 歩き出せば、廊下の空気がいつもより少し張りつめているように感じられた。

 婚約者との初対面の日だが、特別な感慨はない。


(支度も万全。崩れる心配もありませんわね)


 応接間の前へ着くと、待機していた使用人が恭しく扉へ手を添える。


「どうぞ、お嬢様」


 リリアーヌは軽く頷き、一歩、室内へと足を踏み入れた。


◇ ◇ ◇


 応接間に入ると、父オーギュストが立ち上がり、軽く手で招いた。

 その向かいには、一人の青年が静かに姿勢を正して立っていた。


(……あれが)


 大柄な体躯。鍛錬を重ねた骨格が服越しにもわかる。

 短く刈り揃えられた濃い髪。琥珀の瞳。

 右頬を斜めに走る深い傷跡だけが、他の貴族子息とは違う雰囲気をまとわせていた。


 父がリリアーヌへ目を向け、穏やかに紹介した。


「リリアーヌ。こちらがレイドルフ・ド・リュミエール辺境伯だ」


 リリアーヌは父へ一礼し、ゆるやかに青年へと向き直る。


「リリアーヌ・ド・ヴァレンティーヌです。お会いできて光栄ですわ」


 丁寧に、しかし堂々と。

 青年はすぐに深く頭を下げた。


「初めまして、リリアーヌ様。リュミエール辺境伯、レイドルフ・ド・リュミエールです。以後、どうぞよろしくお願いいたします」


 声は低く落ち着き、礼を尽くしている。


 場が整ったところで、全員が腰を下ろした。


「レイドルフ殿、王都までの旅路は問題なかったかな?」


「はい、公爵様。無事に。式までの間は王都の別邸に滞在いたします」


 簡潔で実直な返答。

 そして彼は、わずかに姿勢を正し、リリアーヌへと向き直った。


「……ひとつ、最初にお伝えしておくべきことがございます」


 その声音には、余計な飾りがない。


「辺境は、王都とはまったく異なる土地です。魔物との戦いは日常で、物資の確保も思うようにはいきません。快適さを整えるのは──難しい場所です」


 忠告というより、事実の共有。

 誇張も優しさもない、ただの実直さ。


 リリアーヌは静かに耳を傾け──簡潔にうなずいた。


「そうですの。でも、心配には及びませんわ」


 レイドルフの琥珀の瞳が、わずかに揺れる。


「……と、申しますと?」


「わたくしは、自分のこの美しさにしか興味ありませんもの。お手入れさえできれば、環境など些細な違いですわ」


 当然のように言い切る。

 父は「相変わらずだな……」と小さくため息をつくが、レイドルフは真剣に受け取っていた。


「……なるほど。明確なお考えをお持ちなのですね」


「ええ。曖昧な返事をしても意味がありませんもの」


 そのまっすぐな答えに、レイドルフの表情がわずかながら和らいだ。


「……ありがとうございます。はっきり伺えて、安心いたしました」


◇ ◇ ◇


 ひと息ついたところで、先日届いた書状の内容に話が及んだ。


「そういえば、レイドルフ殿。先日の書状に、ご両親は防衛の都合で式に出られないとあったな。他に親族の方は出られるのか?」


 レイドルフは即座に答えた。


「弟のアーダルベルトが参列いたします。現在近衛騎士団におり、日程の調整がつくとのことです」


「ほう、近衛騎士団とは心強いな」


「まだ若輩ですが、何事にも誠実な性格です」


 レイドルフの語り口は控えめだが、弟への信頼がにじんでいる。


 リリアーヌは少し微笑んだ。


「式の当日までに、お目にかかる機会はありますの?」


「何かと忙しいようで、難しいと思います。去年、王立学園を卒業して、四月から配属されたばかりなものですから」


「では、当日にご挨拶させていただきますわ」


「はい。その時は改めて紹介させていただきます」


 父が軽くうなずき、話を締める。


「式まで、あとわずかだ。こちらの準備は進めているので、何か必要があれば遠慮なく伝えてほしい」


「ありがとうございます、公爵様。明日以降、細かな確認に伺います」


 レイドルフは立ち上がり、深く一礼した。

 動作は大柄な体に似合わず丁寧で、訓練された武人の礼を感じさせる。


「本日はご挨拶のみのつもりでしたので、これにて失礼いたします。以後も、よろしくお願いいたします」


「こちらこそ、よろしくお願いいたしますわ」


 レイドルフは、リリアーヌへ静かに視線を向け、わずかに表情を和らげた。


◇ ◇ ◇


 レイドルフを見送った後、歩きがてら、少し父と話す。


「……思った以上に話しやすい青年だったな」


「そうですわね。率直で、無駄がなくて。わたくし、あのくらいの距離感が一番好きですわ」


 それは、レイドルフへの好意ではなく、純粋な相性の話。


(さて……式に向けての最終調整をしませんと。肌のコンディションは万全ですが、当日の照明と衣装の組み合わせは細かく確認したいところですわ)


 初対面の婚約者の印象よりも、式当日の美の演出のほうが重要である。


(忙しくなりそうですわね……ふふ)


 自然と唇に笑みが浮かんだ。


 ──これが、リリアーヌと怪物辺境伯の最初の対面だった。

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