第10話 : アイゼン・マーク
夜風が、静かにバルコニーを撫でていた。
石造りの邸宅の高みから見下ろす領都は、灯りこそ少ないが、その分、空が広い。
リリアーヌは、夜空を見上げた。
雲の切れ間から覗く星々は、王都で見慣れていたものよりもはっきりと瞬いている。
(……やはり、空気が澄んでいますのね)
気温は低いが、嫌な湿り気がない。
昼間に歩いた回廊の冷たさと同じ、乾いた夜だった。
「ここは、王都よりも星空がよく見えますわね」
独り言のようにこぼした声に、背後から気配が重なる。
「……ああ。灯りが少ないからな」
レイドルフだった。
いつの間にかバルコニーへ出てきており、彼もまた空を見上げている。
しばし、言葉はなかった。
二人分の呼吸と、遠くで鳴く夜鳥の声だけが流れる。
「昼間、領都を歩いてみて思ったんだ」
レイドルフが、少し言葉を選ぶように続ける。
「市場も、店も……王都ほど華やかではないが、この土地なりのものがある。
もしよければ、改めて案内したい」
リリアーヌはゆっくりと視線を彼に向けた。
「……それは」
一拍置いて、口角をわずかに上げる。
「デートのお誘い、ということでよろしいのかしら?」
「っ……」
レイドルフは、ほんの一瞬だけ言葉に詰まったあと、視線を逸らす。
少し耳が赤くなったところを見て、リリアーヌは満足げな表情を浮かべた。
「でしたら、ぜひ」
星明かりの下で、二人は並んでしばらく佇んでいた。
◇ ◇ ◇
翌日、二人は馬車で領都の市場へ向かった。
市場の近くで馬車を降り、並んで歩く。
「やはり、王都では見かけない魔物素材が多いですわね」
リリアーヌは、露店に並ぶ魔物の肉や皮、ツノ、羽根などを興味深そうに眺めている。
「あぁ。土地が痩せていて作物も育ちにくい分、魔物を狩って生活の糧にする者も多いからな」
レイドルフと並んで歩くリリアーヌに気付いた領民から視線が集まるが、本人たちは全く気にも留めていない。
「確かに、魔物素材の他は育てやすい芋類や豆類が多いですわね」
正直に言ってしまえば、市場にはあまり活気がなかった。
品物は種類が少なく、野菜や果物などの作物や、砂糖や香辛料などの嗜好品も、ほとんど見かけない。
「わたくしは豆類を好んで食べますわ。
美しい肌を保つために効果的ですのよ」
リリアーヌが周囲を見渡していると、ふと、視界の端で光るものがあった。
露店においてある木箱や民家の扉に、同じような銀白色の塗料で様々な模様が描かれている。
(そういえば、こちらに来てからよく見かけますわね)
不思議な模様を見ながら考え事をしていると、レイドルフの声が降ってきた。
「立地の問題で流通が滞っているものだから、豊富な魔物素材を売って金が入ったとしても、そもそも買いたい物資が入ってこないんだ」
「流通……。
そういえば、そろそろギルバートがこちらに着いている頃合いですわ」
「ギルバート?」
「えぇ。コルトン商会の副会長で、今度こちらに新設する支部の支部長ですわ。流通の件も相談してみましょう」
デートとは思えない会話だ、と心の中で自重するリリアーヌであった。
◇ ◇ ◇
続いてのデートスポットは、食堂だ。
もちろん、お洒落なレストランではない。
「領都に洒落た店はないんだ。すまない」
「構いませんわ」
腰を下ろしたリリアーヌは、すぐに店内で目に入ったものがあった。
梁の端や壁――ここにも、銀白色の模様がある。
「さっきの市場でも見かけましたが……」
顔を上げて尋ねる。
「あの銀白色の模様は、何ですの?」
「あぁ。あれは、アイゼン・マークだ」
レイドルフは、簡潔に説明した。
鉄角獣というウサギのような小型魔物のツノを砕いた粉を塗料に混ぜ、家の扉や壁、持ち物などに模様を描く風習であること。
土地の守護と繁栄を願う印であること。
リリアーヌは、レイドルフの説明を興味深そうに聞いていた。
「その塗料は、どこで手に入りますの?」
「鉄角獣はあまり強くないし、辺境では手に入りやすい。その辺の店でも売っているだろう。……買っていこうか?」
その言葉に、リリアーヌは満足そうに微笑んだ。
◇ ◇ ◇
食事を終えた後、二人は馬車でコルトン商会の支部に向かった。
領都の良い立地にあり、以前は大きめの宿屋だったところをリフォームした物件だ。
中へ入ると、受付の若い職員が顔を上げる。
「いらっしゃいませ。どのようなご用件でしょうか?」
「ギルバートはいるかしら」
名前を告げた、その時だった。
「おや……?」
奥から聞き覚えのある声がして、男が姿を現す。
「これはこれは。お待たせする前でよかった」
ギルバート・コルトンだった。
王都で見慣れた穏やかな笑みを浮かべ、二人へ近づいてくる。
「リリアーヌ様。無事にお着きになったようで何よりです」
「えぇ、あなたも無事に着いたようで。
こちらがリュミエール辺境伯領を治める、レイドルフ様ですわ」
「レイドルフ・ド・リュミエールだ。よろしく頼む」
ギルバートはすぐに姿勢を正し、名乗る。
「コルトン商会副会長、ギルバート・コルトンです。
この度はこちらに支部を設けることになりました。どうぞよろしくお願いいたします」
形式張らないが、互いに不足のない自己紹介だった。
「立ち話も何ですし、こちらへどうぞ」
そう言って案内されたのは、奥の応接室だった。
◇ ◇ ◇
「こちらから出向けずに、申し訳ありませんでした。
ちょうど荷の整理も終わり、そろそろご挨拶に向かおうと思っていたところで……」
「いや、構わない。
むしろ、急に押しかけて申し訳なかった」
「問題ありませんわ。
わたくしの我儘を聞くのが、ギルバートの仕事なのですから」
ギルバートは苦笑する。
少しの雑談を挟み、レイドルフが本題に入った。
「実は、領主として相談があってきたのだ」
市場で話していたように、作物が育ちにくく魔物素材は豊富なこと、一方で流通が滞っていて、様々な物資が慢性的に不足していることなどを説明した。
レイドルフの言葉に、ギルバートは即座に頷く。
「ええ。こちらへ来る道中でも感じました。
道が不安定な上、魔物も多く危険です。確かに魔物素材は魅力的な商品ですが、どうしてもリスクが大きすぎます」
「やはりそうか……」
悩ましげな表情のレイドルフとは対照的に、隣に座るリリアーヌは妙に笑顔だった。
「なんとかできるわよね?」
その言葉に驚くレイドルフと、苦笑するギルバート。
「そうおっしゃると思っておりました。
いくつか流通の改善につながりそうな案は考えたのですが、聞いていただけますか?」
ギルバートはそういうと、控えていた商会の職員から資料を受け取り、テーブルに広げた。
そこには、少し遠回りだが比較的安全な輸送路の開拓、辺境の冒険者ギルドと連携して定期的な商隊を編成する計画など、辺境の特性を考慮した案がいくつもあった。
「まだ辺境に来て間もないのに、この短期間でこれを?」
レイドルフが目を見開いて驚いている。
「これくらい先回りできないと、リリアーヌ様の豊かな発想には置いていかれてしまうのです……」
ギルバートは遠い目をした。
「とはいえ、いずれも実現には時間が掛かります。
新たな輸送路は来るときに軽く下見しましたが、冒険者ギルドにはまだ話を通していません」
「いや、十分だ。
冒険者ギルドには、私の方からも口添えしておこう」
レイドルフは一拍置いてから、静かに言った。
「領民にはこれ以上、貧しい思いをさせたくない。
どうか流通の改善に協力をお願いしたい」
「もちろんです。
これほどの難題、商人の腕の見せ所ですから」
レイドルフとギルバートは握手を交わす。
そのやり取りを、リリアーヌは静かに聞いていた。
◇ ◇ ◇
コルトン商会を後にした二人は、いくつかの店を回った。
アイゼン・マークのための塗料も購入し、リリアーヌは満足そうだった。
最後に、レイドルフの用事で領都の外れにあるギュンターの工房に寄ると、ちょうどアルベールも来ていた。
リリアーヌはアルベールの様子を見て、こちらも順調そうだと満足し、帰路に就いたのだった。
邸宅へ戻ると、リリアーヌはコレットを呼びつけた。
そして、アイゼン・マークのための塗料を渡し、愛用の日傘に装飾を施すように指示した。
数日後、邸宅の庭を散歩するリリアーヌの手には、アイゼン・マークが日の光を受けてきらめく、美しい日傘が握られていた。
「とても素敵な日傘になりましたね」
コレットの率直な称賛に、リリアーヌは表情を変えずに応じる。
「良い色だから、この日傘に映えると思っただけよ。
他の意図はないわ」
いつも通りの、さらりとした口調。
(……照れ隠しですね)
コレットは、心の中でそっと微笑んだ。
リリアーヌが夜な夜な書庫で辺境の風習や土地柄を調べていることを、彼女は知っている。
この領地や領民を理解しようと努めて、アイゼン・マークを施したのだ――それを、あえて口にしないだけ。
リリアーヌの表情は変わらないが、少し足取りが軽やかだった。




