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第1話 : 婚約

 ヴァレンティーヌ公爵家の書斎には、朝の光が斜めに差し込んでいた。

 重厚な机の上には、紋章入りの封筒が小さな山をいくつも作っている。どれもこれも、上等な紙に過剰なほどの飾り罫。どの家も、格式の高さと本気度をこれでもかと主張していた。


「……ふむ。侯爵家に伯爵家、それから王都の有力子弟。よくもまあ、これだけ並べたものだ」


 低く呟いたのは、この屋敷の主であるオーギュスト・ド・ヴァレンティーヌ公爵だ。

 彼の視線の先にあるのは、娘への縁談がぎっしり詰まった書簡の束である。


 対面のソファでは、そんな父の苦労などどこ吹く風といった様子で、リリアーヌ・ド・ヴァレンティーヌが優雅に紅茶を口にしていた。

 プラチナブロンドの髪は今日も完璧に整えられ、陽光を受けてさらさらと光を返す。サファイアの瞳は、しかし机上の書簡には一瞥もくれない。


「リリアーヌ」


 呼びかけに、彼女はゆっくりと顔を上げた。


「はい、お父様」


「お前も十五になってしばらく経つ。……そろそろ、真面目に結婚を考える頃合いだ」


「そうですわね」


 軽く相槌を打ちながらも、声音は穏やかで、どこか他人事だ。


「王国中からこの有様だ。いい加減、返事を出さねば相手にも失礼というものだ。……で、お前に希望はあるのか?」


 公爵は真剣な表情で問う。

 娘のことを思えばこそだ。相手の家格も、今後の政治的な立場も、幸せも。考えなければならないことはいくらでもある。


 しかし。


「誰でも構いませんわ、お父様」


 リリアーヌは、カップをそっと受け皿に戻しながら、ためらいもなくそう告げた。


「……誰でも?」


「ええ。お父様がお選びになった方でしたら、どなたでも。不満などございませんわ」


 あまりに即答だった。


 公爵は思わず椅子にもたれかかる。


「せめて、どのような相手が良いとか、条件くらいはだな……見た目でも、年齢でも」


「どのみち、わたくしより美しい方などおられませんもの」


 あまりにも自然に言われ、公爵は一瞬だけ言葉を失った。


「……そういう意味で聞いたのではないのだが」


「でしたらなおさら、誰でも差し支えございませんわ。わたくしが美しくいることに支障がなければ、それで十分ですもの」


 リリアーヌは本気でそう思っていた。

 王都を中心に評判になっている自分の容姿は、鏡を見るたびに『完璧』としか言いようがない。

 対して、他人の顔立ちなど、皆どんぐりの背比べ。多少整っていようがいまいが、美の比較対象として検討する価値すらない。


「……本当に、お前は昔からぶれないな」


 公爵は半ば呆れ、半ば感心しながら、書簡の山の端から一通を抜き取った。


「では、一番おすすめの縁談を説明しておこう。お前に希望がないというなら、なおさらだ」


「はい。お父様のおすすめでしたら、その方で結構ですわ」


「……せめて、どんな方かぐらいは聞いてくれ」


 小さく溜息をつきつつ、封筒を指で叩く。


「相手はリュミエール辺境伯、レイドルフ・ド・リュミエール殿だ。辺境の防衛線を預かる名門で、王国への忠誠と武功にかけては他の追随を許さん」


 リュミエール。

 その名は、王都でも時折噂に上る。常に魔物の脅威に晒される過酷な地を守る一族。

 だが、リリアーヌにとっては――その程度の知識で十分だった。


「レイドルフ殿本人は、まだ二十の若さだが、既に当代最強と謳われている。巨躯にして怪力、軍を率いて魔物の大群を押しとどめた戦の話はいくつもある。……その際に、顔の右側に深い傷を負ってな。それらも相まって『怪物辺境伯』などと呼ばれているのだ」


 公爵の声が、ほんのわずかに沈む。


「だが、噂を追えば追うほど、実際の人柄は誠実で実直らしい。辺境伯家は代々そういう家風だ。領民の信頼も厚く、兵もよくついて行く。王国にとっては、なくてはならぬ盾だ」


 そこまで一息に語ってから、公爵は娘を見た。


「……どうだ?」


「その方で結構ですわ」


 返ってきたのは、さっきと同じセリフだった。


「お父様が信頼なさっている方で、王国にとっても必要な方なのでしょう? でしたら、わたくしが異を唱える理由はございませんわ」


「お前、少しは怖がるとか、嫌がるとか……」


「怖がる理由がございませんわ。怪物だろうと、傷だらけだろうと、わたくしの顔に傷がつかなければ問題ありませんもの」


 あまりにもはっきりと言い切られ、公爵は額を押さえた。


「……本当に、お前ははっきりしているな」


 だが、そのわかりやすさが、彼には救いでもある。

 世間がどれほど「怪物辺境伯」と騒ごうと、娘は相手の見た目にも世評にも興味を示さない。それは、誰よりも貴族社会の虚飾を嫌うと言われているリュミエール辺境伯家にとって、むしろ好ましく作用するかもしれない。


「では――この縁談を進めても良いのだな?」


「はい。お願いしますわ、お父様」


 公爵は机に向き直り、受諾の返書を書き始めた。

 リュミエール辺境伯家から届いている打診の文面に対し、「ヴァレンティーヌ公爵家として正式に受け入れる」旨を綴り、署名する。


 ペン先が走る音と、封蝋が押される乾いた音が、静かな書斎に響いた。

 赤い蝋の上にヴァレンティーヌ家の紋章が刻まれた瞬間、ひとつの縁談が現実味を帯びる。


「後日、婚約に関する書類がこちらへ送ってくるだろう。その書に署名をして、初めて正式な婚約となる」


「そうですか」


「ああ。……その時になって『やっぱり嫌』と言うのは勘弁してくれよ?」


「言いませんわ」


 きっぱりと言い切る娘に、公爵は肩の力を抜いて笑った。


◇ ◇ ◇


 数日後。

 同じ書斎に、今度は別の封筒が届けられていた。もちろん、リュミエール辺境伯との婚約に関する書類だ。


 リリアーヌはさらさらと自分の名前を署名し、こうして王都中を騒がすことになる縁談は、こうもあっさりと結ばれた。


(リュミエール……。確か高級な魔物素材の産地でしたわね。辺境に行けば、手に入りやすくなるかしら)


 ふふっと、その美しい口元から笑みがこぼれた。

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