第88話:互いの主張
まだ夜が薄く残る早朝。
集落に冷たい霧が漂い、地面に落ちた露が光る。
その静寂の中、カチャン、カチャン……と一定の音が響いていた。
水路だ。
古くひび割れ、泥で詰まった溝を、エフィナは黙々と掘り返していた。
髪は結い上げ、足元は泥まみれ。
額の汗を拭うことも忘れ、ただ黙々と。
道具を持つ手には小さな傷がいくつもあった。
昨夜ほとんど眠っていないのは、誰が見ても明らかだった。
「……うわ、ほんとにやってる」
声が聞こえた。
振り返るとヨーグが立っていた。
目を丸くして、唇を少し震わせながら。
「エフィナ……本当に来たんだ……昨日のあれ、冗談じゃなかったのかよ?」
エフィナは泥のついた頬を、にっこりと緩める。
「うん。ヨーグと約束したからね」
「でも……!こんなことしてていいの?今日が最終日なんだろ?住民投票で負けたら……!」
エフィナは少しだけ考えてから、ヨーグに向けて、真っ直ぐに言った。
「別に勝ち負けには拘ってないよ?それに……ヨーグとの約束より大事なこと、今はないよ」
言葉は淡々としていた。
けれど、その声には迷いがなかった。
ヨーグはしばし口を開けたまま固まり、それから、ぶるぶると首を振る。
「でも、でもさ!水路なんて……そんなの、誰が気にするんだよ!」
「ヨーグが気にしてる」
エフィナは小さく笑って、鍬を振り上げる。
「だから、あたしも気にするよ」
その背中は、細くて、非力で、魔王候補とは到底思えない。
だが“本当に守ろうとしている相手がいる者の後ろ姿”だった。
ヨーグは、歯を噛みしめたまま、その姿を見つめた。
エフィナは再び作業に戻り、泥をさらい、石を組み直し、時折魔法で調整しながら、ひどく時間のかかる地味な作業を続けた。
太陽がのぼり、遠くから住民たちのざわめきが聞こえはじめる。
住民投票の時間が近づいていた。
エフィナは最後の石を置き、両手をぱんっと払った。
「……よし。ここまで、かな」
そしてヨーグに、そっと工具を渡す。
「この先はヨーグに任せるね。あたしが整えたけど、細かいところは集落の人じゃないと分からないし」
ヨーグは受け取った工具をぎゅっと抱きしめた。
「……ほんとに、いいの?」
「うん。投票に行かないと、ユナに怒られちゃうから」
冗談めかして笑うエフィナ。
だがその笑顔の奥には、疲労も、不安も、全部隠れていた。
ヨーグは、ぽつりと言う。
「……エフィナ。お前が、魔王になってほしいって……初めて思った」
エフィナは目を丸くし、照れたように後頭部をかく。
「えへへ……ありがとう。がんばるね」
そう言って、泥だらけの足で歩き出す。
広場へ向かうために。
朝日が差し、その背を金色に照らす。
ヨーグはしばらくその姿を見つめ、やがてそっと水路にしゃがみ込んだ。
「……任せとけ。エフィナ」
小さく呟く声は、どこか誇らしげだった。
エフィナは振り返らない。
振り返れないほど、胸がいっぱいだった。
広場に向かう道を、一歩一歩踏みしめるたびに、心臓が大きく鳴った。
今日、決着がつく。
でも、その前に。
エフィナは自分の胸に手をあてた。
“あたしは、あたしにできることをした。”
そう言える一日を、始めようとしていた。
集落の広場。
住民たちがざわざわと集まっていく。
投票箱が中央に置かれ、先ほど到着した記録官が静かに開始の準備を進めていた。
シェーヴァ陣営は既に整然と並び、部下たちは冷静な表情で報告し合っている。
“配給制度の整備”
“治安維持ルールの統一”
“罰則の導入”
すべてが的確で、迷いのない仕事だった。
シェーヴァは腕を組み、静かに視線を前へ向ける。
感情は読めない。けれど、その目には確固たる確信が宿っていた。
「……やれることはすべてやった。あとは結果を見るだけだ」
淡々と呟くその表情に、一点の曇りもない。
部下のひとりが声を潜めて尋ねた。
「エフィナ陣営の“酒場”……あれは脅威には?」
「一過性だ。腹が満たされれば笑顔にもなる。しかし統治に必要なのは“秩序”だ。一時の温情では揺らがない」
シェーヴァはそう言い切り、眼を閉じる。
エフィナの行動に何かを感じながらも、それを論理で押し潰すかのように。
一方その頃。
エフィナとユナは広場の前に立っていた。
エフィナの服は泥で汚れ、手には細かな傷がいくつもあった。
しかし、その姿は不思議と“頼もしさ”を帯びていた。
ユナは隣で小さく笑う。
「……ほら、エフィ。行ってきな」
「……うん」
エフィナは小さく深呼吸をし、ざわつく住民たちの前にゆっくりと歩み出る。
最初の一歩で、広場が静まった。
見下す目、疑う目、期待する目……色々な視線が突き刺さる。
エフィナは震えながらも、真正面から立った。
そして言った。
「ねぇ、みんな……いつまで“守られる側”でいるつもり?」
その瞬間、空気が凍りつく。
住民の数人が眉をひそめた。
「……は?」「何を言ってるんだ」
シェーヴァですら、わずかに眉を動かした。
エフィナは続ける。
声は震えていたが、必死に前へ出す。
「今までずっと誰かに助けてもらうのを待ってた。誰かに守ってもらうのを待ってた。誰かに責任を押しつけてきた。……違う?」
誰も返事をしない。
エフィナは拳を握った。
「でも……ここは誰の集落なの?」
沈黙。
「シェーヴァの集落?あたしの集落?他の魔王候補者達の集落?」
その問いに、住民たちは互いに顔を見合わせる。
エフィナは一歩、前に出た。
弱々しい足取りなのに、その声は広場にしっかり響いた。
「違うよね?ここは“みんなの集落” だよね?」
ざわっ……
空気が揺れた。
「だったら……守ってもらうだけじゃなくて、自分たちで、守ることもできるはずだよ」
代表者が、思わず言葉を失った顔で見つめていた。
「あたしは……“魔王になりたい”からここに来たわけじゃない。“魔王としてどうありたいか”その答えを探してる途中なんだと思う」
エフィナは胸に手を当てた。
「でもね。昨日、みんなと話して、ヨーグと約束して、ヨーグと一緒に水路を直して……分かったんだ」
少しだけ、照れた顔になった。
「魔王ってね、一人で全部守る存在じゃないんだと思う」
そして強く、はっきり言った。
「“守る人”と“守られる人”がいるんじゃなくてみんなが一緒に支え合える世界 を作るのが、魔王なんじゃないかなって」
広場が、完全に静まり返った。
震えていた声が、今度はしっかりと広場に響く。
「私は支配したいんじゃない。みんなで、この集落みたいに困ったときは、困ったって言い合える魔界にしたい。……それを、今ここで証明したいんだよ」
ユナが静かに息を吸う。
カナトやエルネスト、他の候補者達が観客席で固唾をのむ。
こうしてエフィナは、シェーヴァの秩序に対し“自立”と“共生”を突きつけた。
シェーヴァは目を細め、感情を読ませない声で呟いた。
「……なるほど。“守る側”ではなく“共に歩む側”。エフィナ、それがあなたの答えなのね」
だがその胸の奥は、わずかに揺れていた。
広場がしんと静まり、エフィナの言葉が空気に沈んでいく。
その沈黙を破ったのは集落の代表者だった。
ごつごつした腕、荒れた肌。
かつて戦ってきた名残はあるが、どこか力が抜けたような雰囲気をまとった魔族だった。
代表者はゆっくりとエフィナに歩み寄り、低い声で言った。
「……言うじゃないか、小娘」
嘲りにも聞こえるが、その目にはわずかな揺らぎがあった。
「“自分たちで守れ”だと?“ここはみんなの集落だ”だと?」
代表者は鼻で笑った。
だが、その笑いには強がりが混ざっていた。
「……なら、教えてやるよ」
大きく息を吸い、地面を指し示す。
「まず、この土地が終わってる」
エフィナが瞬きをする。
「種を撒いても育たねぇ。水はけが悪いくせに、栄養はどこにもねぇ。どれだけ魔力を流し込んでも、芽が出る前に腐る土だ」
住民たちがうつむく。
代表者は続ける。
「水だって・・・」
遠くの、ヨーグが整えてるものとは別の枯れかけた細い水路を指差す。
「何キロも歩かねぇと手に入らねぇ。その水だって干上がりかけてる。雨が降れば泥水、乾けば砂漠。……そんな場所で“支え合え”だと?」
声が震える。
「移住?そんなもん、百回考えたわ!」
怒鳴るが、それは怒りというより“嘆き”だった。
「だがな俺たちの人数を受け入れられる土地なんて、どこにもねぇ。魔界は広いようで狭いんだよ。おまけに周りを見てみろ」
代表者は遠い森の影を指す。
「北は暴走魔獣の巣。西は毒霧の荒野。東は深淵の穴が動き始めてる。南は……あんたらでも手こずる魔物がうじゃうじゃだ」
エフィナが言葉を失う。
代表者は胸に拳を当て、絞り出すように言った。
「……俺たちは魔族だ。だがな、全員が強いわけじゃない。ここにいるのは、戦えなかった者の集まりだ。追われた者、壊れた者、弱い者……“捨てられた者”だけが残った場所なんだよ!」
住民たちの目がじわりと潤む。
代表者の声が震える。
「エフィナ、お前の言葉は……眩しいよ。本当にそうなれたらいいさ。“自分たちで守る”なんて言えたら、そりゃ最高だ」
ぐっと俯き、絞り出す。
「でもな。俺たちはもう、何度も何度も挑んで……挑んで、挑んで、挑んで……全部、ダメだったんだよ」
拳を強く握る。
「土地も、水も、魔物も、運命すら敵に回って……もう……どうしようもなかったんだ」
最後の声は、ほとんど泣き声に近かった。
「お前の言葉は綺麗だ。でも……俺たちには、もう立ち上がる力なんて残ってねぇんだよ……」
その言葉を聞き、エフィナは唇を噛んだ。
ユナは遠くからエフィナを見つめ、静かに心の中で呟いた。
さあ、エフィナ。
ここからどうする?
これはあなたにしか越えられない壁だよ。
広場の空気は、絶望、怒り、希望、迷い、それらが全部入り混じって、張りつめていた。




