第87話:答え
広場に作った仮設の酒場に、ひときわ重たい足音が響いた。
談笑が、ふっと止まる。
集落の代表者だった。
腕を組み、燃え残る火と並んだ料理を一瞥し、鼻で笑う。
「……くだらん」
その声は低く、冷たい。
「こんなものは、今日限りのまやかしだ」
場の空気が、凍る。
「明日になれば元通りだ。いや、それどころか、もっと悪くなる」
代表者は一歩進み、エフィナを真っ直ぐに見据えた。
「一夜だけ夢を見せられた分、人は現実に戻った時、より深く絶望する」
「宴まがいなことを開いた責任が、どれほど重いか分かっているのか?」
エフィナの肩が、びくりと揺れる。
「……っ」
反論しようとして、言葉が出ない。
(……最も、だ)
胸の奥で、そう思ってしまう自分がいた。
希望を与えて、それを奪う残酷さ。
それを、自分たちはしているのではないか。
視線が落ちる。
その横で。
ユナは、何も言わず、鍋をかき混ぜていた。
火加減を見て、具材を足し、味を確かめる。
まるで、代表者の言葉など聞こえていないかのように。
その態度が、代表者の神経を逆撫でした。
「……貴様」
苛立ちが、声に滲む。
「人の話を聞いているのか?」
ユナは振り返らない。
「焦げるから」
それだけ言って、また鍋に向き直る。
その瞬間。
――ガンッ!!
代表者の手が伸び、並べられていた料理の皿を、無造作に払い落とした。
木の皿が転がり、中身が地面にぶちまけられる。
温かい湯気が、一瞬で冷たい夜気に溶けた。
周囲から、小さな悲鳴が上がる。
子供が、息を呑む。
エフィナの頭が、真っ白になる。
「――っ!!」
その時だった。
ユナが、ゆっくりと立ち上がった。
初めて、代表者を見る。
その瞳には、怒りがはっきりと宿っていた。
「……何てことするの」
声は、低い。
だが、震えていない。
「それ、私たちが勝手に用意した材料じゃない」
一歩、前に出る。
「集落のみんなが、“無理のない範囲で”って言いながら、少しずつ出してくれた材料」
「明日の分を削ってまで、持ってきてくれた人もいる」
地面に散らばった料理を、真っ直ぐに見つめる。
「それを――」
顔を上げ、代表者を睨む。
「まやかしだって言う前に、踏みつける権利が、あなたにあるの?」
広場が、完全に沈黙した。
代表者は、一瞬、言葉を失う。
怒りに任せた行動だったはずなのに、今になって、その意味が重くのしかかる。
ユナは続ける。
「シェーヴァの言う秩序が大事なのは分かる」
「現実が厳しいのも、分かる」
「でも……」
拳を、強く握る。
「人の善意を粗末にする理由には、ならない」
火が、静かに揺れていた。
この瞬間、酒場はただの“場”ではなくなっていた。
張りつめた空気の中で、ユナは怒りをぶつけ続けることはしなかった。
代わりに、腰のポーチから一枚の紙を取り出す。
それは、少しよれた紙だった。
ユナは代表者の前に歩み寄り、その紙を、そっと差し出す。
「これ」
代表者は怪訝そうに受け取る。
紙には今日振る舞われた料理の“作り方”が描かれていた。
文字は、ほとんどない。
鍋の絵。
刻まれた野菜。
火の強弱を示す線。
味見をする人の顔。
誰が見ても分かるように、一つ一つが、丁寧な絵になっている。
「魔界で使われてる文字は分からないから」
ユナは淡々と言った。
「だから、絵にしたの」
代表者の指が、紙の端を、無意識に掴む。
「これをどう使うかは、任せる」
「また作るもよし、作らないもよし」
「今日限りのまやかしにするかどうかも……」
一拍、置いて。
「あなたたち次第」
ユナは、それ以上、何も言わなかった。
紙を渡し、踵を返し、また鍋の前に戻る。
その背中は、責めても、媚びてもいなかった。
ただ、委ねていた。
その光景を、エフィナは、息をするのも忘れて見ていた。
(……そうか)
胸の奥で、何かが、すとんと落ちる。
答えを“与える”ことでも、“押しつける”ことでもない。
選ぶ場所を、相手の手に残すこと。
それが、自分のやるべきことなんだ。
エフィナは、一歩、前に出た。
「……代表者さん」
声は、まだ震えていた。
けれど、逃げなかった。
「継承戦の最終日――明日」
ぎゅっと拳を握る。
「集落のみんなが、笑顔になれる方法を」
「あたしは、まとめます」
代表者が、ゆっくりと顔を上げる。
「一時の宴じゃない」
「明日だけで終わらない、“これから”に繋がる形を」
エフィナは、真っ直ぐに、見返した。
沈黙が落ちる。
代表者の視線が、床に散らばった料理へと移る。
壊してしまった皿。
無駄にした食材。
そのすべてが、今になって、胸に刺さる。
「……ちっ」
舌打ち。
視線を逸らし、紙を握りしめたまま、背を向ける。
「好きにしろ」
吐き捨てるように言い、歩き出す。
「どうせ、もう引き返せん」
「明日までだ」
最後に、振り返らずに、低く付け加えた。
エフィナは、胸に手を当てる。
そこには、もう迷いはなかった。
選ぶのは、自分。
そして託すのも、自分。
その覚悟が、確かにそこにあった。
夜。
天幕の中、卓上に広げられた地図を、シェーヴァは一人見下ろしていた。
配置、配給量、巡回経路。
秩序は保たれている。
不足も混乱も、数値上は存在しない。
問題は、ない。
「……」
指先で、地図の端をなぞる。
統治継承戦。
勝敗は、すでに見えている。
自分は“正しい”。
力を示し、規律を敷き、従わせる。
それこそが統治だ。
感情に流される者は、長く持たない。
だから勝利に、揺るぎはない。
はずだった。
「……くだらん」
ぽつりと、呟く。
脳裏に浮かぶのは、報告で聞いた、取るに足らないはずの話。
酒場まがいの場を作ったこと。
食事を振る舞ったこと。
笑顔が、戻ったこと。
一時的なものだ。
感情の発露に過ぎない。
明日になれば、現実に戻る。
むしろ落差で、余計に混乱する。
理屈は、完全だ。
なのに。
胸の奥に、針のような違和感が刺さる。
「……なぜだ」
自分でも分からない。
怒りではない。
不安でもない。
ただ、“計算に含まれていないもの”が動いている感覚。
地図には載らない。
数値にもならない。
人が、勝手に動く。
勝手に信じる。
勝手に期待する。
それは、最も厄介で、最も制御しづらいものだ。
「……エフィナ」
名を口にした瞬間、僅かに、呼吸が乱れる。
今の彼女は、強くない。
判断も遅い。
なのになぜ、中心に立っている。
なぜ、人の視線が、集まる。
「……理解不能だ」
自分のやり方は、変えない。
変える必要はない。
感情は、切り捨てるべきものだ。
秩序の前では、無意味だ。
そう、何度も、自分に言い聞かせる。
それでも、胸の奥に残る小さなざわめきは、消えない。
まるで、見えない場所で、歯車が、別の方向に回り始めているような。
「……」
シェーヴァは、ゆっくりと地図を畳んだ。
今、自分にできることは一つだけ。
勝つために、やるべきことを、やる。
それだけだ。
理由の分からない焦りなど、考える価値はない。
そう、信じて。
天幕の外では、夜風が、静かに吹いていた。
その風が運ぶ声に、人の笑い声が混じっていることを、シェーヴァは、まだ意識しないふりをしていた。




